関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 山北町 YK-02
写真1 JR谷峨駅
写真2
崩壊地遠景 高い橋脚の橋は東名高速道路の新酒匂川橋、後方の橋梁は国道246号線
写真3 酒匂川左岸より崩壊地を望む
写真4
崩壊地 写真2,3の接近写真で、左が国府津(下流)方向
当時の線路は左側の尾根筋末端部を3号トンネル、手前右側の高まりを4号トンネルとし、両者のトンネル間の線路は地表に敷設されていた。現在は3号トンネルから4号トンネルまで全てトンネルである。
写真5
国道より3号鉄橋越しに3号トンネル坑口を望む。当時は単線仕様の複線であった。
後方が国府津(下流)方向。左側のトンネルが当時のトンネルで、トンネルを抜けたところが山津波流下箇所である。当時のトンネルは断面が小さく、坑口はレンガ造りである。
撮影:2014/9
「大磯小学校校長 薮田拓司 関東大地震松の木は滑った 観測だより 神奈川県温泉地学研究所 通巻38号 平成元年」には関東地震の際に発生した、
という2つの出来事が記載されています。このページでは上記の資料から「東海道本線を襲った山津波」について紹介いたします。
以下、- - - - - (end)まで上記資料抜粋
東海道本線を襲った山津波
関東大震災によって箱根・丹沢両山地の崩かいはものすごかった。酒匂川は箱根山地と丹沢山地の境界になっている。その峡谷に沿って走る東海道本線(現在の御殿場線)は山崩れによっていたるところで切断された。私たちの村の対岸を走る線路は3号トンネルと4号トンネル*1の間の沢から押しだした大きな山津波によって切断されてしまった。(図4)。この山津波は山稜の30m下からおこり、沢を下って線路を押し流し、酒匂川を横断して対岸の道路にのしあがった。山津波の堆積物で堰堤がつくられ、その上流に湖が生まれた。水面はむらのつり橋すれすれまで上がり、谷ヶの河原にあった水田も水没しそうになった。夕方6時ごろこの堰堤は崩れ、洪水が発生して下流で溺れた人が出た。
災い転じて福となす
不幸中の幸いというべきか、列車はこの山津波に襲われる寸前で止まっていた。国府津から出発した貨物列車は瀬戸集落の1号トンネルを渡り、2号鉄橋にさしかかったとき地震に襲われて止まった。連結されていた貨車の貨物は小麦粉と乳牛(30~40頭)であった。東海道本線の被害は大きく、いつ開通するかわからない状況であった。小麦粉や牛はこのまま放置できる荷物ではなかった。わが村は道路も鉄道も寸断されて陸の孤島となり、食料の搬入は困難であった。村長はこのような事情を関係各方面に説明し、小麦粉と乳牛を払い下げて頂くことに成功した。
大量の小麦粉はいろいろな料理となって、食べ物がなくなって困っていた村民を飢餓から救ってくれた。問題は乳牛である。相談の結果、隣の共和村がこの牛を飼うことになった。牛からしぼられた牛乳は高価に売ることが出来、1頭当たり月に30~40円にもなって村の貴重な現金収入になった。この乳牛の飼育がきっかけとなり、共和村の酪農がはじまった。今日、スーパーなどで「共和牛乳*2」として売られている牛乳の始まりが関東大震災のとき貨物列車に乗っていた乳牛であったのである。
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*1~*2追加
*1 3号トンネルと4号トンネル 写真4,5参照 現在は1本のトンネルとして繋がっており、第3,4号というトンネル名が付けられている。
*2 共和牛乳 現在はこのような牛乳は無いようである。製造していた組合の名称変更、解散、再建などを経て、会社としてはタカナシ乳業の関連会社足柄乳業として存続している。情報源⇒(http://www.citymilk.net/bin/kanto/kanagawa/kyowa.htmより)
<資料1 西坂勝人 神奈川県下の大震火災と警察 昭和2年 P181より>
部内*1鉄道路線は九月一日の震災には小被害に止まったが、同月九日、十日の降雨のために北足柄村、清水村間に在る第三号、第四号隧道間の山崖高さ五間長さ十二間*2崩潰して線路を埋没し、……
当時の資料では9月9、10日の降雨が原因となっている。崩壊は地震と降雨で2度発生したのだろうか。
*1 部内→松田警察署管内
*2 一間は1.82mで、高さ五間は約9m 長さ十二間は約22m。
<資料2 大正十二年関東大地震震害調査報告(第二巻) 鉄道及び軌道之部 復興局編 昭和2年 p2 より>
切取は法面崩壊し、或いは上部の土砂滑落して線路を埋没せるところ頗る多く、その特に著しきは東海道本線箱根第三号隧道第四号隧道間、……
とあり、切土法面の特に著しい個所の最初に挙げられています。また、隧道の項では、第3号トンネルの沼津方では土砂崩壊によって坑門より3mが破壊してトンネルを閉塞したことが記載されています。