作成:2003/11
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-10
【油堀、伊予橋付近の死者】
江東区史 中巻(平成9年)によると、
深川区内において一か所で50人以上の多数の死者を出した場所と死者数ををみると、以下のとおりである(カッコ内は死因)。
とあります。
隅田川に架かる永代橋や江東区には森下という名称は残っていますが、油堀や伊予橋は現在の地図には見当たりません。これらは現在では道路や宅地に変わっています。
写真1
隅田川大橋を日本橋(中央区)側から対岸の江東区側を望む
写真2
旧油堀が隅田川に接続していた箇所で、墨田川大橋を渡り終えようとしているところ
油堀は道路に変わりました。
写真1は隅田川に架かる隅田川大橋を日本橋(中央区)側から対岸の江東区側を眺めています。
写真2は写真1の墨田川大橋を渡り終えようとしているところで、この道路沿いの延長にあった堀が油堀です。現在の地名でいうと、江東区佐賀一丁目と佐賀二丁目の境界になり、地上1階は都道475号線、2階は首都高速の9号深川線、営団地下鉄半蔵門線が走っています。
写真3 伊予橋跡
伊予橋は道路に変わり、橋の架かっていた五間堀およびその延長の六間堀は埋められてほとんどは住宅地に変わりました。
写真3は江東区森下2丁目周辺の新大橋通りで、東から西方向を眺めています。関東大地震当時は「五間堀」が写真の左右方向に横断しており、現在の道路(新大橋通り)に沿って伊予橋が架かっていました(図1の地図参照)。写真では前方の信号から手前にかけては周辺より高くなっており、当時の橋の位置が地形として残っています。
写真4 五間堀跡説明板
撮影:2003/10
伊予橋跡から五間堀跡の道路に沿って約200m北東方向に進むと堀跡の一部が公園になっており、「五間堀跡」の説明板があります。説明板には本所深川絵図の一部を示して次のように記載しています。
五間堀跡
江東区森下1-17~3-13
五間堀は小名木川と竪川を結ぶ六間堀から分かれる入堀です。五間堀という名称は川幅が五間(約九m)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。
五間堀の初見は寛文十一年(一六七一)の江戸図で、六間堀とともに記載されており、五間堀が開削された時期は、明暦の大火(一六五七)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(一六五八~六〇)ころか、それ以前と考えられます。
五間堀は江戸時代には富川町(森下三)までで堀留となっていましたが、明治八年(一八七五)、付近の地主であった元尾張藩主徳川義宜(よしのり)により掘り進められ、明治一〇年ころに小名木川まで貫通しました。
昭和十一年(一九三六)・昭和三十年の二度の埋め立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられました。
平成十二年三月 江東区教育委員会この周辺の道路は東西南北方向の道路が主体で、碁盤目状に区画されていますが、これを五間堀や六間堀跡が斜に横断しております。これらの堀跡は現在の地図上でも追跡することができます。
図1 伊予橋周辺
帝都大震火災系統地図(大正12年12月発行)の一部で青と黒の文字を追加
吉村昭著 関東大震災(文春文庫)には溺死体の収容について、次のように記載しています。
陸上の死体以上に処理が困難だったのは、各河川に漂い流れていた溺死体であった。殊に、本所、深川の河川には、火に追われて飛び込んだ溺死者の遺体が充満していた。それらの処理の中心になったのは、東京水上警察署で、警視寺阪藤楠所長が部下を指揮してその難事業にとりくんだ。
水上警察所では、船を出して死体の収容につとめたが、隅田川をのぞく河川では、焼け落ちた橋や漂流物におおわれ航行できぬ状態だった。
そのため作業は進まず、寺阪署長は河川の障害物を取りのぞくことが先決であるとさとり、陸軍工兵隊にその作業を依頼した。工兵隊は、積極的に作業を進め、九月九日夕刻にいたって漸く河川の航行も可能になった。
水上警察所では、六隻の船を出し、作業員五十名を監督して水死体を鳶口で引揚げた。それらの遺体は腐敗していて激しい臭気を放ち、人夫の中には卒倒する者もあったが、翌日十日までに八百八体の遺体を引揚げることができた。
さらに翌十一日には百八十名の作業員と西平野警察署員によって、まず伊予橋下に集まっていた百七十五体の遺体を引揚げ、ついで堅川、小名木川、墨田川で七百十一体を収容した。
さらに十四日には神田、日本橋、京橋、浅草、本所、深川の各区の河川と隅田川、品川沖等で七十四体、十五日には二十六体を収容し、溺死者の処分を終えた。