作成:2003/4
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-11
写真1 浄心寺
「江東区史 中巻 江東区 平成九年」によれば、
浄心寺の境内が臨時の火葬場に当てられ、他の火葬場と比べて際立って多数の遺体が荼毘に付され(火葬数:2,960)たこと、遺骨はすべて所在地ごとに区分して、現在の墨田区横網町の東京都慰霊堂(旧本所区の陸軍被服廠跡)の納骨堂に納められたことが述べられています。そして、
大正一二年一〇月五日午後二時、深川区主催のもとに、浄心寺焼跡において、仏教各宗派連合による大震災横死者追弔大法会が営まれた。越えて大正十四年八月三〇日、浄心寺境内に大震災による死者の供養塔が建立された。
とあります。この供養塔が以下に示す蔵魄塔です。
写真2 蔵魄塔など全景
写真3 蔵魄塔と慰霊塔
写真4 花筒・灯明台
撮影:2003/3
蔵魄塔は、短円柱状の墳墓に半球のドームが載っている慰霊モニュメントで、ドームには立てた右膝に両手を回しうずくまっている女性の姿態が浮き彫りになっています。(大正14年建立)
中央の石碑の正面には、「第五拾回忌 関東大震災殃死者慰霊塔」、向かって左側面には「昭和四拾七年九月一日 浄心寺 第三十三世日壽」とあり、50回忌を記念して慰霊塔が建立されたようです。(写真2中央の石塔)
中央にある灯明台の両脇には花筒があり、花筒には、「大震災無縁供養有志」と刻まれています。(写真3)
蔵魄塔のレリーフについては、日蓮宗現代宗教研究所 ウェブサイト 日蓮新聞[1997/10/20]によると、次のように紹介されています。
大正十二年九月一日午前十一時五十八分、相模湾を震源とし、マグニチュード七.九、死者九万人、罹災者三百四十万人。ご存知の関東大震災である。 燃えたのは家だけでなく、橋も燃えた。近くの木場に浮かんでいる原木も、水に浮いている部分から燃えて、ついには水面下の部分も完全に燃えきったという。その木場や川に熱から逃れた人々の死体がひしめきあった。
浄心寺ではこうした死体三千百七体が荼毘にふされた。身元など分かるはずもなく、合祀することとなった。
時の東京美術学校(今の芸大)の教授・田名子実三が、悲しみにくれる女性像を制作し、半球のドーム形の「蔵魄塔」とした。時代は今ほどオープンでなく、亡き人を弔うのに「女性」をレリーフにするとは何事かとクレームがついたらしい。氏は西洋流の新しい感覚で造ったのだが、不謹慎だと物議をかもしだした。しかし氏は押し切った、とも伝えられている。
このようにモニュメントが造られるのは良い方だった。公園やあちらこちらで荼毘にふされたものも散在していた。昭和初期、これらの遺骨を集合させて、被服廠に「震災記念塔」がたてられた。だから今ここには遺骨はない。しかし、モニュメントの裸婦はいまだに涙にくれて、み魂によりそって泣いている。(青)
また、「細田隆善 東京史跡ガイド 8 江東史跡散歩 学生社 1978」によると、
大正十二年九月一日、関東大震災のため多くの死者を出し、付近町会では遺体を焼却し、ここに納骨した。大正十四年八月三〇日、白セメント造りの円形の供養塔、蔵魄塔を建設した。江東区最大の震災供養塔である。
と紹介されています。
<参考>
写真2の左側にある慰霊碑は昭和20年3月10日の東京大空襲による犠牲者のための慰霊碑で、深川区洲崎辨天町会によって昭和21年3月10日(1周年)に建立されています。