作成:2016/6
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-35
写真1 お台場海浜公園
赤矢印の位置に対象とする碑がある
左側の先端がで国指定史跡の第三台場で「台場公園」になっている
写真2 漂着犠牲者慰霊の顛末記碑
入江側を向いて建てられている
写真3 同上
写真4 第三台場の護岸
写真5 第三台場から第六台場を望む
右側のつり橋は芝浦ふ頭とお台場を結ぶレインボウブリッジ
都民が海や自然とふれあい、スポーツやレクリエーションを楽しめる場として、東京の埋立地に整備した公園を海上公園と呼びますが、その中の1つが「お台場海浜公園」です。
「お台場海浜公園」には延長約800mの人工砂浜のおだいばビーチ、海上バスのりば、展望デッキなどがあります。
この碑はお台場公園を整備するにあたって東京都港湾局が建立したもので、碑銘はありません。この地は隅田川の河口に位置していたため、関東大震災や東京大空襲の際には多くの遺体が漂着した場所であり、慰霊に対する顛末が記されています。
隅田川から東京湾に流出した遺体は東京湾の反時計回りの循環流等によって運ばれ、品川区や大田区、神奈川県などに漂着しました。品川区の海蔵寺、品川区の大経寺、大田区の五十間鼻、横浜市金沢区の龍崋寺、横須賀市馬堀の浄林寺には漂着遺体に対する慰霊碑などがあります。
お台場海浜公園の先端にあるのが、台場公園(第三砲台)で、第三砲台からすぐ近くに第六台場を望むことが出来ます(写真5を参照)。この二つの台場は大正15年に史跡として指定され、現在に残されていますが、その他の台場は東京港建設のために順次撤去あるいは埋立造成地の一部として埋立てられて消滅しました。
なお、お台場公園のように台場に「お」が付くのは、幕府である「お上」の意向で建造されたために、築造当時から敬称の御を冠して「お(御)台場」と呼ばれていたことがあるためのようです。
嘉永6(1853)年のペリー来航までは、幕府は外に対しては鎖国で、内に対しては大型船の建造禁止で対処していたため、東京湾奥深くに敵対勢力が侵入してくることは想定していませんでした。ペリー来航によって、東京湾の内湾が軍事的には無防備であることに気付いた幕府は、品川沖から深川沖まで、第一台場から第十一台場までを築造する計画を立てました。ペリーは翌年の再来航を約して引き上げたため、再来航に備えて昼夜兼行の突貫工事で築造が進められました。
この台場計画は幕府が威信をかけた緊急の海防工事でしたが、資金難に陥り挫折しました。完成したのは第一、二、三、五、六台場で、第四と第七台場は着工されたものの完成せず、第八~第十一台場は着工に至りませんでした。
< 台場公園の案内板より >
都立台場公園のあらまし
台場公園(第三台場)
「お台場」の名で知られる品川台場は、江戸幕府が黒船来襲にそなえて品川沖に築いた砲台跡です。設計者は伊豆韮山の代官・江戸太郎左衛門英龍で、ペリーが浦賀に来航した翌月の嘉永六年(1853年)8月に着工、1年3カ月の間に6基が完成しました。
現在は大正15年(1826年)に国の史跡に指定された第三、第六台場だけが残されています。
このうち第三台場は、昭和3年東京市(都)によって整備され、台場公園として解放されています。周囲には、海面から5~7メートルの石垣積みの土手が築かれ、黒松が植えられています。また内側の平坦なくぼ地には、陣屋、弾薬庫跡などがあります。
第三台場の陣屋(休息所)は倒壊寸前で、弾薬庫2つのうち1棟が倒壊しました。沖側の石垣が3カ所で崩壊し西側には大亀裂が入りました。第六台場の陣屋も屋根瓦が落下するなどの被害を受けました。
第三台場と第六台場は大正13年に史跡の仮指定がなされ、史跡としての保存を前提として大正14年度から大正15年度に復旧工事が実施されました。復旧工事が間もなく終わろうとする大正15年10月に国の史跡に指定されました。なお、現在は建物はなく、陣屋跡、弾薬庫跡として残っています。
参考資料
石田進(2013)東京湾・台場 その歴史と現認レポート,181p
佐藤正夫(1997)品川台場史考 -幕末から現代まで-,221p