作成:2016/6

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 東京 T-39

大田区の池上本門寺 --- 帝都大震災火災殃死者之霊供養碑 ---

  • 所在地:東京都大田区池上1丁目1-1
  • 震災当時は東京府荏原郡池上村
  • 対象:池上本門寺の供養碑
  • 碑銘:大正拾二年九月帝都大震災火災殃死者之霊供養碑
  • 建立年月日:不詳
  • 交通:東急池上線「池上」駅から徒歩約15分境内の石段有(行程約800m)
本門寺の総門

写真1 本門寺の総門


写真2 本門寺の石段(此経難持坂 しきょうなんじさか)

写真2 本門寺の石段(此経難持坂 しきょうなんじさか)



写真2 本門寺の仁王門

写真3 本門寺の仁王門

帝都大震災火災殃死者之霊供養碑は背後の日蓮大上人説法像の隣にある


写真4 日蓮大上人説法像周辺

写真4 日蓮大上人説法像周辺

帝都大震災火災殃死者之霊供養碑は日蓮大上人説法像の向かって右側にある


写真5 帝都大震災火災殃死者之霊供養碑

写真5

帝都大震災火災殃死者之霊供養碑

池上本門寺

< 資料1より >

……本門寺の歴史は鎌倉時代に始まる。法華宗に帰依した番匠(大工)の棟梁、郷士池上宗仲(むねなか)が、屋敷を寄進して寺院を建立した。これを喜んだ日蓮が、1276(建治2)年本門寺と命名したのが起源と伝えている。1282(弘安5)年病を発した日蓮が、身延をたち、常陸に向かう途中、9月18日(または19日)宗仲の屋敷に旅装をといた。しかし病状はますます悪化し、10月13日未明61歳で没した。今日盛大に行われるお会式(えしき)は、この忌日の行事である。


< 資料2より >

池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。

日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。

長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。

帝都大震災火災殃死者之霊供養碑

供養碑の正面

供養碑の正面

台座の上に据えられた供養碑の正面には左のように刻まれています。また、台座にはプレート板があって次のように刻まれていますが、劣化が激しく意味不明の文字列もあり、詳細には判読できません。

プレートの刻字内容

本所

立正講

佛教師入間川日清

 仝 入間川囗囗

発起人

府下 請地 北村國松

本* 押上 佐藤治兵衛

本 囗囗 小川囗七

賛助員人名

本 押上 入間川定吉  囗囗囗囗囗

…… 以下、7~8行程度で2段に渡って住所・氏名が刻まれているが、表面の剥落が激しくその殆どは読めない ……


*本 「本」とは本所の本で、所が省略されているようだ。以下の「本」も同様。(現在の墨田区は向島区と本所区が合併して新設された区であり、震災当時、現在の墨田区南部に本所区があった。東京都慰霊堂は、当時の本所横網町にあった陸軍被服廠跡に建てられている。)

文頭にある「本所 立正講」の上側には比較的大きな3文字(運・元・開)が刻まれていますが、書体が異なっており後に追加されたものかもしれません。他の文字とのつながりや意味も不明です。

プレートの発起人・賛助員および碑の裾を取り巻く帯状の石の寄付者にはその上側に簡単な表記の住所が刻まれていますが、これらの住所より推定すると、供養の対象は東京市の広い範囲の犠牲者であると考えられ、日蓮を信仰する信者団体であろう「本所 立正講」の主導によって建立されたようです。

建立年月日は供養碑の表裏、台座のプレートなどどこにも見当たりません。ただし、プレートの最後の行に刻まれていたものが、剥落して跡形も無くなった可能性は否定できません。




写真6 本門寺の総門と背後の台地

写真6

参道に続く本門寺の総門と背後の台地


写真7 台地上の区立池上会館展望台より南西方向を望む

写真7

台地上の区立池上会館展望台より南西方向を望む

左前方の低地に市街地が広がる 右側の鬱蒼とした緑で覆われている台地は本門寺の境内である

撮影:2016/6

【参考】 本門寺周辺の地形

本門寺は荏原台(えばら)と呼ばれる台地の最南端に位置します。空中写真でみると、本門寺一帯は境内やこれを取り囲む樹林によって市街地の中の島のように独立して見えます。本門寺周辺の台地は横浜市に分布する下末吉台地と同じ時期に形成された平坦面で、約12万5千年前の下末吉海進による波食台や堆積面を起源としています。一方低地は、約6,000年前の縄文海進とその後の海退によって生まれた平坦面で、地表面は多摩川の堆積物で被われています。

本門寺の総門は低地にあり、本門寺の主要な建造物群(仁王門、大堂、五重塔など)は台地に配置されています。低地と台地の境界は段丘崖と呼ばれる急斜面であり、ここには此経難持坂(しきょうなんじさか)と呼ばれる石段が設けられ総門と主要な建造物群を結んでいます。また、日蓮上人入滅の旧跡は台地際の低地にあり、ここからは大坊坂(だいぼうざか)と呼ばれる石段で台地上と結ばれています。




参考資料

資料1 東京都歴史教育研究会(2005)東京都の歴史散歩 中 山手,301p

資料2 池上本門寺ウエブサイト 縁起 http://honmonji.jp/outline/engi.html

大田区教育委員会(2010)大田区の文化財 第37集 大田区の石造遺物-大田区指定文化財・金石文を中心に-,137p

武村雅之(2012)関東大震災を歩く 現代に生きる災害の記録,328p