作成:2015/5
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-38
写真1 大経寺
写真2
東京都史跡 鈴ヶ森刑場遺跡を示す案内塔
写真3
同上 背面には鈴ヶ森史跡保存会による説明文が記されている
写真3
供養塔などの石碑群と見学・参詣者
大経寺は鈴ヶ森刑場で処刑された人々を供養するための寺院であり、刑場に寄り添うように建てられていたと思われます。鈴ヶ森刑場遺跡は大経寺境内というより、大経寺に隣接した公共の敷地にあり、写真4のように供養塔などの石碑群より成っています。
< 大経寺の歩み(大森立正墓苑ホームページ*1より) >
当寺は、鈴ヶ森刑場が開設された慶安四年(1651)と前後して堂宇が建立されたらしい。度々の台風等により建物を失い、その都度再建された様であるが、記録がない為、その間の様子を詳しく知る事は出来ない。
明らかな文章によると、文久二年(1862)大井村名主大野貫蔵が中心と成り、刑場に隣接して百姓番小屋を建立し内々に本尊を安置、密かに刑場受刑者の供養を行う様に成ったのを始めと伝えられる。
その後、明治四年(1871)刑場廃止と同時に「旭松庵」と称して、無縁受刑者供養を専らとし、檀家を持つ事なく今日に至っている。その間、昭和十七年(1942)品川薄長寺42世慈洽院日完上人を開山として、寺号公称を行い「鈴森山、大経寺」と成り、第2世小越妙誠法尼の時代に戦争を経て建物を維持、昭和29年、国の区画整理事業により寺域を大幅に失い縮小された現地に移り、平成2年老朽化した建物を全面改装し、近代的寺院として再建、今日を迎えた。
東京都史蹟 鈴ヶ森刑場遺跡 (案内塔背面の説明文より)
当地は、東海道に面し、慶安四年(1651)江戸幕府により設けられた。「鈴ヶ森刑場」遺跡で、歌舞伎や講談に登場する、丸橋忠弥・平井権八・八百屋お七等の処刑地として有名である。境内には、処刑に使用された台石や井戸、供養塔が点在し、東京都史跡として、品川百景にも指定される江戸刑制史上重要な文化遺跡となっている。 平成四年二月二十三日 鈴ヶ森史跡保存会
写真5 大震火災殃死者供養塔
撮影:2015/4
鈴ヶ森刑場跡の一角に大震火災殃死者供養塔があります。
供養塔の背面には大井町の海岸に37体の死体が漂着したこと、十三回忌を迎えるにあたり碑を建てて供養したことなどが記されています。大井町沿岸への「漂着死体調」として、漂着月日、場所、推定年齢が刻まれており、漂着状況(最多は9月8日で8体)の推移が分かります。