作成:2016/9
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-40
写真1 大林寺
写真2 大林寺境内で正面が本堂
本堂の左側を墓地に向かって進むと正面に大震災供養塔がある
写真 大震災供養塔
1つの台座に3つの石碑があるが、中央の碑が大震災供養塔
撮影:2016/9
< 資料1より >
もとは真言宗で、薬王院と称した。長享2年(1488)当寺第3世日円、法華の遊化(ゆうげ)学僧日位と法論し、その教説に感じて弟子となり、日位を開山に迎う。翌年、日位入寂、法兄日教を第2祖に招き、日円は自ら3世となる。以後池上本門寺末寺として今日に至る。
< 資料1より >
関東大震災供養塔(昭和4年) 高さ126cm=地元の被害は少なかったが、海岸には犠牲者の遺体がたくさn漂着し、当寺はその収容場所となった。碑は、前方講中と住職によって造立されたもの。以来、毎年9月1日には、住職を船に乗せ、海上供養を行っていたが、海苔業の終焉により、自然消滅*1した。なお、大森東1丁目の海難供養塔は美原講中の人々によって維持されていて、盆と彼岸には当寺の住職を呼んで供養している。
*1 自然消滅 海上供養は自然消滅しましたが、大林寺の年中行事の1つに震災慰霊会(3月31日と9月1日)があり、慰霊行事が続けられています。(資料2より)
碑の正面には大震災供養塔 前方講と刻まれています。「前方」は現在の大森中3丁目付近の旧小字名であり、大森中3丁目の八幡神社は現在でも前方八幡神社とも呼ばれているそうです。前方講とは小字の「前方」を中心とした講であったと思われます。
参考資料
資料1 「大田区史辞典」策世うグループ(2006)大田区の仏様とお寺 大田区ゆかりのことがら・その2
資料2 長享山 大林寺 パンフレット
武村雅之(2012)関東大震災を歩く 現代に生きる災害の記録,328p