作成:2006/11
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-31
写真1
国道16号線川辺町高架橋より保土ヶ谷工場跡地(西南西)方向を望む
写真2
天王町サティ側より保土ヶ谷工場跡地(東北東)方向を望む
富士瓦斯紡績株式会社の保土ヶ谷工場では職場に就くために工場間の廊下を移動していたところ、地震の大きな揺れでレンガの壁が倒壊しました。これにより、職工453名と社員1名が圧死しました。
1つの工場での死者数最も多かったのは、下の表に示すように富士瓦斯紡績の保土ヶ谷工場です。
震災当時の保土ヶ谷は清らかな川の流れと田んぼのある風景が広がっていました。この工場は昭和20年に閉鎖され、その後自動車教習所を経て現在は左の写真のようにマンションやショッピングセンターに変わっています。周辺には関東大震災に関するモニュメントはありません。
工場・宿舎などにおける死者数(ワースト10) | ||
会社名 | 所在地 | 死者数 |
富士瓦斯紡績 | 横浜市保土ヶ谷区 | 454 |
富士瓦斯紡績 | 神奈川県川崎市 | 154 |
相模紡績 | 神奈川県平塚市 | 144 |
小田原紡績 | 神奈川県小田原市 | 134 |
富士瓦斯紡績 | 静岡県小山町 | 123 |
東洋紡績 | 東京都北区王子 | 85 |
東京電気 | 神奈川県川崎市 | 65 |
東京紡績 | 東京都足立区西新井 | 43 |
東洋モスリン | 東京都江東区亀戸 | 39 |
東京毛織 | 東京都北区王子 | 31 |
写真3 曹洞宗藥王山東光寺
写真4 関東大震受難者の墓
墓石正面
向かって右側面
富士瓦斯紡績保土ヶ谷工場跡地より北西約2.5kmの距離に東光寺があり、その墓地に受難者の墓があります。引き取り手のない女工さんの遺骨を東光寺の(先々代の)住職が引き取って葬りました。
墓石の記載によると、墓石は会社によって震災から10周年に当たる昭和8年に建立されました。
女工さんの出身は東北の農家が多かったといいます。当時は多くの農家は貧しく、女工として働きに出ることは一家の助けとなりなりました。借金をして女工となり、工場内の宿舎に入ったまま働いて借金を返し、借金の返済後は実家に仕送りをするような場合も多かったようです。
女工哀史として女工の過酷な労働が知られていますが、農家の生活はさらに厳しいものがありました。東北出身者の他に沖縄や朝鮮半島の出身者も多かったといいます。犠牲者の家族の中には遠い横浜までの汽車賃などを工面できずに遺骨を引き取りにいけなかった人も少なくなかったと思われます。
当時の労働時間(かながわの婦人 第2号 1985より) | |||
勤務時間 | 休憩時間 | 実労働時間 | |
先番 | 午前5時~午後2時 | 30分 | 8時間30分 |
後番 | 午後2時~午後11時 | 30分 | 8時間30分 |
上の表によると、特別長時間の労働であるとはいえませんが、手を休めることや気を緩めることのできない連続的労働は辛いものがあったようです。また、大正9年頃のこととして「労働時間は朝あるいは夕方の6時からの1週間交代で、1日12時間労働、昼夜交代業である。」(かながわの婦人 第2号 1985 「富士紡績保土ヶ谷工場での生活」 より)との記載があり、残業を含まない建前と実際の間には違いがあったのかもしれません。
なお、深夜の労働は大正5年に工場法で廃止されましたが、紡績業は例外であって昭和4年まで施行されなかったといいます。
死者453名という死者を出しながら工場跡地周辺に慰霊碑などのモニュメントが無いのは犠牲者が工場労働者であり地域社会とのつながりが薄かったこと、女工など社員として認められていない組織の最底辺の人がほとんどであったことなどと関連があるように思われます。
工場跡地周辺には古くからの集落があったのでお寺もあったと思われますが、遺骨が引き取られたのは工場から約2.5kmも離れた東光寺であったことも似たような事情からではないでしょうか。