作成:2016/3
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-30
写真1
龍崋寺の山門を望む 右の石柱には「真言宗 御室派 龍華寺」と記されている
写真2 山門から本堂を望む
茅葺き屋根の鐘楼の右側に震災殃死漂流者供養塔がある
写真3 震災殃死漂流者供養塔
供養塔の左手前に建碑の由来碑と右側に地蔵尊がある
写真4 建碑の由来碑(碑文参照)
震災殃死漂流者供養塔の前面左側にある
写真5
野島公園展望台から金沢八景周辺の海岸を望む
龍華寺は前景左側 突堤が金沢新漁港で、砂浜と海岸林は海の公園(埋立地の人工海浜) 当時、この辺りの旧海岸にも漂流遺体が漂着したのではないだろうか
写真6
金沢八景の一つである、野島夕照(のじま の せきしょう)
平潟湾に架かる夕照橋と背後の野島
撮影:2016/3
真言宗 御室派(おむろは) 知足山 龍華寺(ちそくざん りゅうげじ)
龍華寺ホームページより http://ryugeji.com/index.html
鎌倉の外港として栄えた武州金沢に整然とたたずむ古刹「龍華寺(りゅうげじ)」。寺のおこりは、文治年中(1185~1190)に源頼朝が六浦山中に創建した浄願寺で、明応8年(1499)に融弁上人によって現在の地にあった光徳寺と併合され、移築されました。
通算八百年もの歴史のなかで、複数の寺院の統廃合があった関係上、貴重な宝物も多く、旧本尊「弥勒菩薩坐像」(室町時代)のほか、「脱活乾漆造菩薩坐像」(天平時代)、「木造阿弥陀如来坐像」(平安時代)、「地蔵菩薩坐像」「木造龍頭」(室町時代)などが、横浜市指定文化財となっています。また、境内には、四季折々の草花が咲き誇り「華の寺」として、多くの皆様に親しまれています。
なお、本山は京都、御室(おむろ)、仁和寺(にんなじ)です。
写真3に示すように、震災殃死漂流者供養塔を中心として、その建碑由来碑と地蔵尊があります。
石塔の正面には「震災殃死漂流者供養塔」、背面には「大正十三年八月廿四日 施主 大橋須磨子」と刻まれています。
震災殃死漂流者供養塔の併設碑に相当する建碑由来碑には、次のようなことが記されています。
震災殃死漂流者供養塔と建碑の由来碑の記載内容から、
・大正13年7月に各地区に仮埋葬されていた遺体を荼毘に付して改葬、
・同年8月に震災殃死漂流者供養塔を建立(建立者 大橋須磨子氏)、
・13回忌に当たる昭和10年に法要を行い、建碑の由来碑を建立(建立者 龍華寺)
されたことが分かります。
東京湾沿岸には漂着遺体を埋葬・供養したことを示す碑などがいくつか存在しています。漂着場所、碑などの設置場所、漂着遺体数などを挙げると次のようになります。
京浜急行の駅名でもある金沢八景は江戸時代からの人気の八つの優れた風景を指しましたが、海岸線は埋め立てによる造成が進み、当時の面影はほとんど残っていないそうです。
金沢八景の中に、野島・夕照橋付近の野島夕照(のじま の せきしょう)というのがありますが、歌川広重の錦絵によると写真6の眺めがこれに相当します。
夕照橋の架かる平潟湾は、砂州で形成された潟湖でした。砂州・潟湖・野島という自然の景観が人気であったと思われますが、現在は平潟湾の周辺は埋立てられて写真6のように川のようになっています。