作成:2010/11 更新:2015/9
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-27
写真1
金蔵院(海向山岩松寺)の山門
写真2 大震横死者碑周辺の状況
写真3 大震横死者碑
撮影:2010/11
写真4
斜面下の平坦面に偕楽園があった(写真左端の白いビル付近)
写真5
斜面末端部はコンクリートフレームとアンカーで斜面の安定化が図られている
撮影:2015/9
金蔵院の大震横死者碑は崖の崩壊による割烹料理店偕楽園の倒壊・埋没による圧死者の碑であり、碑の背面に男女11名の氏名が刻まれています。なお、大正大震火災誌(下記参照)には被害の状況が詳しく記載されており、男11名女10名計21名が圧死したとあります。一方、別資料の横浜市震災誌によると女中が16名惨死したとあります。
磯子町字新地偕樂園[かいらくえん]は磯子方面第一の大割烹店にして、海浜景勝の地を占め夏季海水浴場として亦名あり、同所は梅花の名所久良岐郡杉田街道に当り、門の北方道路を隔てて約40間[約70m]の場所にある高さ約40丈[約120m]の断崖は震災に当り、幅110間[約200m]に亘り大崩壊を為し、土塊は偕樂園敷地内の約半ば迄押出して小山を築き(断崖を距[へだた]る約30間[約50m]の道路面に於て埋没最高所約5間[9m]あり)為に偕樂園建物の内木造平屋建(一部二階建)所謂百疊敷大広間と之に接属せる二階離平家一棟と百坪の炊事塲と客席木造平屋4棟は全部埋没し、同平屋建4棟は約半部埋没し、前記大広間及炊事場又は其の附近にありたる雇人男女28名の内男11名、女10名、計21名は埋沒圧死し、同時に木造二階建て1棟、同平家建5棟は倒潰し、間もなく埋沒せる炊事塲より発火し7棟の半埋没の埋残部及海水浴場とを焼失せり、門脇にありたる人力車宿三好屋事渡邉爲吉方平家一棟も偕樂園と共に埋沒し、家人3名及来訪者1名計4名埋没圧死せる・・・
(元資料は縦書き、漢数字をアラビア数字に変更、漢字は旧字体を新字体に変更、一部の送りがなを変更、[ ]内は追加)
大震横死者碑 正面
大震横死者碑 背面
資料*1によれば、偕楽園から崖までは、道路を隔てて約70mの距離がありましたが、崖の崩壊によって、偕楽園の敷地の半ばまで崩壊土砂で埋まりました。
現在はこの斜面に低地と台地を結ぶ道路が斜めに走っており、斜面上には数棟のマンションが建てられています(写真4参照)。
磯子の史話によると、偕楽園は現在の旧日本住宅公団2号棟あたり(写真4の左端付近で、本牧通りの海側)にあったようです。この附近はJR根岸線の磯子駅にごく近く、ビルが立ち並んでおり、海は見えません。当時は鉄道もなく、偕楽園の海側は海水浴場でした。
<コメント>
この崖はかっての海食崖で、崖の高さは約30m、斜面全体では55m程度の高低差があります。一般に、中小の崖崩れの場合、崩壊土砂の到達距離は崖の下端から崖の高さと同じ距離の範囲に収まることが多く、住宅などは崖の高さの2~3倍以上離れることが望ましいとされています。偕楽園を襲った土塊はかなりの距離まで到達しています。当時の崖の状態と崖端から偕楽園までの距離についての詳細にはわかりませんが、現在の地形から考えて、崩壊土塊は崖の高さの2倍程度の距離まで到達した可能性があり、崖の高さが高く、深い崩壊が発生したと思われます。
参考資料
*1 大正大震火災誌 神奈川県警察部 1922
井上公夫編著 関東大震災と土砂災害 古今書院 2013
磯子の史話 磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会 昭和53年