作成:2015/9
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-28
写真1
旧横浜刑務所周辺の当時の地図
東京及横濱復興地図 大正13年 時事新報社を抜粋編集(着色・文字挿入など)
写真2 復元された根岸橋の親柱
根岸橋は平成19年8月に現在の橋に架け替えられたが、復興橋の親柱が復元されている
写真3
根岸橋より旧横浜刑務所跡地を望む
写真4
掘割川左岸よりより旧横浜刑務所跡地方向を望む
旧横浜刑務所跡地は掘割川の対岸にあり、国道16号線を介して商業ビルが並び、その背後は主に住宅街に変わっている
撮影:2015年9月
震災当時、掘割川の右岸に横浜刑務所があり、横浜刑務所の前の掘割川には根岸橋が架けられていました。
根岸橋は震災後に掘割川の護岸改修とともに復興橋として架け換えられ、横浜刑務所は震災被害と周辺の都市化のために、現在の港南区港南四丁目に移転しました。
現在は、旧横浜刑務所跡地は商業地と住宅地になり、当時を示すものは正方形に近い敷地の外周道路とその内の規則的に整えられた街路だけです。なお、根岸橋は、平成19年8月に拡幅されて架け替えられました。親柱のデザインは復興橋のそれが復元されています。
根岸町横浜刑務所は、掘割川に面して四面煉瓦塀を繞(めぐ)らし、此の構内に在る建物大小81棟中、28棟及煉瓦塀は強震の為、倒壊し囚人1,134名中53名の圧死者を出し、更に同日午後3時頃付近からの飛び火に依りて、遂に建物全部は烏有に帰してしまった。
…… 前略(被害状況) ……
市内殆ど全部は焦土と化し刑務所亦全く烏有に帰し、差当り囚徒を収容するの場所あらざると共に彼等に供給すべき食料を得るの途も絶え今は亦奈何(またいかん)とも為すべき術あらず。爰(ここ)に於いて椎名刑務所長は同日午後6時法の定むる所に拠り囚徒全部を開放せり。然れども囚徒中任意踏留まりて職員とともに当面の労務に従事せる者多かりき。而して震災当時の在監者は己(既)決囚1,078名、未決囚49名、拘留囚7名、計1,134名中52名の圧死者を除き余りは全部之を開放せるものなるが、同年9月末日迄の帰還者は780名にして、残る301名は迯(逃)走者と見做(みな)されたり。
同刑務所は同月8日帰還囚の内295名を同月23日、135名を何れも名古屋刑務所に移送せり此の際に於ける囚徒の開放は実に万己(ばんや)むを得ざるに出でたるものなるが、囚徒解放の声は9月1日夜より不逞朝鮮人襲来の蜚語と相和して、強く罹災者の耳朶に響き普通人さえ異様に殺気立ち、往々にして常規を逸するの言動を為し易き際とて、左記解放囚中田為吉等の如き掠奪団もありしこととて、恰も彼等の全部が徒党を組みて到る処に強窃盗を働くかの如き説伝えられ、市内は勿論郡部一般にも恐怖を与えたり。然れども多数解放者のことなれば、中には少数の者の不逞行為を為したるものありと雖も、然(しか)も事実の上に於いては其の害毒の及ぶ処の極めて尠少(せんしょう)なりしは、彼の混乱時に於いては正に奇象として見ざるべからず。
左
本籍 東京都四谷区荒木町27番地戸主
当時、横浜刑務所在監(窃盗1年6月)囚泥為事
中田為吉
当30年
右は住所不定活版職杉本竹次郎外16名と共謀し、横浜市に於ける震災当時罹災民救護の名の下に義勇団なるものを組織し、共謀して9月2日午前8時頃より午後3時ごろまでの間に於いて、横浜市根岸町瀧ノ上2,315番地上瀧七五郎方外8ヶ所を襲撃し、脅迫して武器、酒、米野菜其の他の食料品を強奪す。
囚人の開放は24時間以内に刑務所または警察署に出頭することが条件でした。
翌2日の解き放し期限までにもどった囚人約700名は、焼跡に天幕を張って夜を過ごしました。3日の朝になって囚人を集めて、焼跡の片付けを命じ、焼けのこり材料で仮収容所をつくり、囚人たちを収容しました。作業中の囚人は、実におとなしく働き、附近の人たちが心配するほどの悪事もしないうえ、町の焼け跡の整理にも精出して働いたので、人びとにたいへん喜ばれ、食べ物をわけてもらったりしたということです。
9月末までの帰還者は、合計780名になりましたが、未帰還者は301名、逃亡者の扱いをうけることになりました。帰還者のうち、9月8日までのものは、名古屋刑務所へ第一陣295名、第2陣135名の移送をしました。このときは、磯子の海から軍艦「夕張」を移送鑑として使用しました。
…… 午後6時頃同所長は遂に1,130有余の既、未決囚を開放せり。為に之等囚人が同所部内を徘徊し衣食を漁る者続出し、地方民何れも危惧の念を抱きつつある内同日(9月1日)午後9時頃より誰云うとなく朝鮮人の放火又は強盗、強姦等の暴行を演じつつあるの風説流布されるや、不安は一層増大し、罹災民中の不逞者は少し許の残存家屋を襲って、食料其の他苟(いやしく)も生活の必需品は一品も之を余さず掠奪し、……
…… 中略……
翌2日よりは更に流言飛語は増大して部民は竹槍、刀剣を持して警護に任じつつあるも、不節制なる自警団の暴行は時と共に激烈を加え時々鬨声(ときのこえ)を揚げて鮮人を追う等殆ど戦時状態の如き観を呈せり。
(資料1*、資料2*は縦書き、漢数字をアラビア数字に変更、漢字は旧字体を新字体に変更、一部の送りがなを変更、一部の読点を句点に変更、( )内は追加)
参考資料
資料1* 大正震災志 内務省社会局 大正15年
資料2* 大正大震火災誌 神奈川県警察部編纂 1926
資料3* 磯子の史話 磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会 昭和53年
時事新報付録 復興局公認 東京及横濱復興地圖 大正13年4月発行 時事新報社