作成:2016/3
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-29
写真1
八幡神社
左側には八幡神社に由来する掘割川に架かる八幡橋がある
写真2 鳥居の左側にある石碑
敬神と刻まれた石碑(左)と記念碑 その前には倒壊鳥居を利用したと思われる1対の円柱がある
写真3 八幡神社の社殿
石灯籠や狛犬には大正八年の銘がある
写真4
境内社入り口の石柱
関東大震災で倒壊した鳥居が再利用されている
撮影:2016年2月
現在の八幡神社のある地は、ずっと昔は根岸村でしたが、江戸時代のはじめに検地があって、この辺一帯が滝頭村に編入されました。
根岸村にとっては長く先祖から鎮守としてきた神社が滝頭村のものになり、滝頭村にとっては隣村の鎮守にいまひとつなじめませんでした。検地から100年ばかり後になって、根岸村がこの八幡神社を引き取り、根岸村の地に遷し、社殿を建立してこれが根岸八幡神社となりました。
一方、根岸八幡神社が根岸村に遷った後、滝頭八幡大神が建立されました。この神社が現在の八幡神社です。
八幡神社の社地の西側には川幅4~5mの程度の八幡川が流れていましたが、明治3年から掘割川が開削されました。掘割川の川幅は30m程度となり、八幡神社の社地が削られ、それに伴って現在地に社殿を移転して改築・造営されました。
明治に造営した社殿が古くなり、大正7年から営繕工事に着手し、社殿に続き、玉垣・石灯籠・狛犬・手水鉢などの石造品が大正8年に完成しました。
大正8年の営繕工事完了後、4年にして関東大震災が発生し、社殿は傾き鳥居は倒壊しました。(資料*2によれば、社殿・鳥居・玉垣・灯籠・納屋・石塀が全壊とある。)
震災の復旧・復興の営繕工事は大正13年に着手し、大正14年に完成し、これを記念して、大正15年9月に敬神碑と記念碑(写真2参照)が建立されました。
記念碑の主な内容は次のように刻まれています。
上記の大正15年に建立された記念碑には、関東大震災のことに触れることなく、大正7年からの造営事業の来歴が一連の事業として記されていますが、<資料1*>や<資料2*>によると、震災で被害を受けており、工費が増大したものと思われます。
社殿右側に天照皇大神と稲荷大神を祀る境内社がありますが、旧鳥居と思われる花崗岩製の円柱が門柱として使用されています。左側の門柱には、大正八年九(大正の大の字は上半部が切断されて無い)と読める文字が刻まれています。これが大正8年に完成し、関東大震災で倒壊した鳥居であり、震災後の営繕工事で、倒壊した鳥居の再利用がなされています。
その他、敬神碑と記念碑の入り口にもこの鳥居を利用したと思われる1対の円柱(写真2参照)が建っています。
現在の鳥居はコンクリート製で震災後の営繕工事で復活しました。また、鳥居や敬神碑や記念碑は神社前の道路の中程にありましたが、昭和30年に市電を通すための道路拡張によって今のところに移されました。(資料1*による)
参考資料
資料1* 磯子の史話 磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会 昭和53年 p379-382
資料2* 横浜市震災誌 第三冊 横浜市役所 大正15年 p296-297