作成:2006/10
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-20
写真1 金刀比羅大鷲神社
案内板より
横浜市地域無形民俗文化財
酉(とり)の市
平成三年十一月一日 登録
金刀比羅(ことひら)神社の境内社である大鷲(おおとり)神社毎年十一月の酉の日に行われている祭事で、「お酉さまと呼ばれ、横浜の年中行事としてたいへんな賑わいを見せています。
大鷲神社は明治五年に高島町に創建され、明治十五年に現在地に移されました。
平成四年三月
横浜市教育委員会
写真2
三社復興碑(正面クローズアップ)
写真3
すし塚の右隣にあるのが三社復興碑
この位置からはすし塚は正面で三社復興碑は背面となる
金刀比羅大鷲神社は金刀比羅神社、大鷲神社、稲荷神社の三社よりなることから、「三社復興」の碑にある三社とは金刀比羅神社、大鷲神社、稲荷神社を指すものと思われます。
正面上段には「三社復興」とあり、その下には「金○○圓 氏名」の形式で三段に分けて五十八名、最下段両脇に二名の計六十名が刻まれています。
裏面の劣化状況が正面と比べて著しい。裏面は劣化の少ない箇所を選んで刻字されているようでもあり刻字位置が不自然です。
当神社は昭和二十年五月二十九日の空襲で焼失しており、石碑の劣化は空襲の火炎による影響かもしれません。さらに劣化した表層を削り取り新たに刻み直されているかもしれません。
写真4
金刀比羅大鷲神社の石柱の右にある「震災紀念」碑
「震災紀念」と読み取れる
撮影:2006/9
石柱「金刀比羅大鷲神社」の脇に「震災紀念」と中央に大きく刻まれただけの紀念碑あります。他に文字は見当たりません。
石碑は粗粒の結晶よりなる花崗岩よりなり、全体に風化が激しく淡褐色をしています。
当家ご主人の話によると以前は手水鉢の一部として用いられていたとか。
それ以上の話はわかりません。
資料による廓内の状況
その1 神奈川県警察部 大正大震火災誌 1924 より
眞金町遊廓は眞金町及永樂町の地2萬坪を一廓とし四面板塀を繞(めぐ)らし、此に業を營む貸座敷は83軒あり之れが建物は何れも大廈高樓(たいかこうろう)にして、大部分は強震の爲倒潰し多くの壓傷死者を出し、次で廓外より發せる猛火の爲廓内は延燒全滅せり、廓内に於ける死者數を調ぶるに、震前娼妓1027名中死者144名、貸し座敷傭人687名中105名の死亡者を出せるが、此の内一戸に於て多數死者を出せるは、永樂町神風樓事山口美代方23名、………
(ルビ追加、漢数字をアラビア数字に変更)
その2 横濱市役所 横濱震災誌 第二冊 1927 より
廓内一帯は埋立地であるし、殊に2 3階の建物ばかりであったので、第一震が來と、反町樓を残したのみで、後は全部倒潰した。(中略)12時20分頃、火は眞金町數箇所から發火し、三吉町方面からも延燒して來て、折柄の西南風に煽られて、廓内は猛火の荒れ狂ふところとなった。神風樓・二葉樓等、主だった妓樓を初め、全部灰に化した。
死者の數は、凡そ450名で、娼妓の死者はこの數の半部220名であった。
(漢数字をアラビア数字に変更)