作成:2006/10 更新:2015/6
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-21_1
写真1
石段下から宝生寺の山門を望む
写真2 宝生寺本堂
横浜市指定有形文化財 造営:1680年
写真3 関東大震災韓国人慰霊碑
写真4 同上
2006/9撮影
案内板より抜粋
青龍山寶金剛院と号し、真言宗に属する寺である。
平安朝末期の承安元(西暦1171)年貴清法印により開創される。
南北朝時代から発展し、この地方隋一の大寺院になった。
慶長十四年伊豆相模武蔵三ヵ國の古義真言宗法談所三十四院の一と定められ、近隣五十二ヵ寺の末寺を支配する本寺として認められた。
江戸時代には、灌頂堂、客殿、山門、長屋門、鐘楼、経蔵、弁天堂、寶篋印塔等が建立された。
明治七年本寺の寺格を増徳院に移してから次第に衰微し、多くの建物を失った。
嘉吉二(一四四二)年領主より横濱村薬師堂免として當寺あてた田畑の寄進を受けたが、これは「横濱」の地名のあらわれる史上最古の文書として有名である。
横浜市役所 横浜市震災誌 第二冊 1927 p125-126 よると
當町寳生寺の境内には、新たに震災回向所假堂が建立された。これより先き震災後、遭難者の冥福を祈る為めに横濱公園、其の他市内各町で、塔婆や、墓標を建てたが、復興に連れてそのまヽにして置くことも出来ないで、十三年七月、神奈川縣大震災法要會の發起で、有志の賛助を得、縣・市に於ける遭難者の回向所を寳生寺に建て、墓標や塔婆等を納めたのであった。十三年九月一日、盛大な震災一週年忌の大法要を施行した。
とあり、宝生寺は震災犠牲者の回向に積極的に関わっていました。関東大震災にまつわる複数の石碑があるのもうなずけます。
関東大震災横浜記録 在日大韓民国居留民団神奈川縣本部 1993によると、
在日朝鮮人の同胞救済団体である愛隣園を主催する李誠七氏が虐殺された朝鮮人の供養をお寺に依頼したところ、多くの寺で断られたが宝生寺の当時の住職が引き受けてくれて、大正13年から毎年9月1日に法要が営まれているとあります。
また、同資料によると、1970年9月1日例祭の折、発起人一同の賛同を得て本県在住同胞有志の浄財の寄付と宝生寺の土地提供により1971年9月1日に建立されたとあることから、石碑の正面の1970年は建立を決定した年、背面の1971年が建立した年であることが分かります。