作成:2015/6
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-21_2
写真1
大震災横死者追悼之碑などの石碑群
写真2
手前の自然石が大震災横死者追悼之碑で、背後に3基の石碑がある
写真3 大震災横死者追悼之碑
自然石に大震災横死者追悼之碑と刻まれている
2015/6撮影
宝生寺の山門を入って、左側に続く道を下っていくと、写真1・写真2のように右側に関東大震災にまつわる石碑群があります。最も前面にある自然石の石碑が大震災横死者追悼之碑で、その背後には他に3基の石碑が並んでいます。
大震災横死者追悼之碑の背面には、横濱自衛保健組合 吉岡 駿河 青年会 大正十三年九月一日と刻まれています。
大震災横死者追悼之碑の碑文(左:正面 右:背面)
< 資料 横浜市役所 横浜市震災誌 第二冊 1927 >
當町寳生寺の境内には、新たに震災回向所假堂が建立された。これより先き震災後、遭難者の冥福を祈る為めに横濱公園、其の他市内各町で、塔婆や、墓標を建てたが、復興に連れてそのまヽにして置くことも出来ないで、十三年七月、神奈川縣大震災法要會の發起で、有志の賛助を得、縣・市に於ける遭難者の回向所を寳生寺に建て、墓標や塔婆等を納めたのであった。十三年九月一日、盛大な震災一週年忌の大法要を施行した。
上記の資料によると、大正13年9月1日にこの宝生寺で1周年忌の大法要が行われていますが、大震災横死者追悼之碑の建立は同日であり、また、背後の「大正大震災殃死者之碑」も同様です。これらの碑は1周年忌の大法要と関連して建立されたものと思われます。
< 資料 横浜市 横浜市震災誌 第二冊 p19-20 >
碑の背面に刻まれている町名の「吉岡」「駿河」の被災状況
吉岡町
当町は震災前は戸数450、人口2500を有した30年前の埋立地で、地盤の脆弱なことは、伊勢佐木町と同様で、道路は甚だしく亀裂し、濁水の深い所は3尺に達したといわれている。倒潰家屋は400戸であった。死者150名、大部の者は下敷となり、後刻焼死したものである。火の手は午後1時に起り、2時前までに焼き尽し、辛うじて一命を得たものは、多くは、日本橋を渡り、或いは、横浜橋を渡り、中村方面に避難したもので、逃げ遅れたものは、吉田川の中へ浸って、ようやく一命を取止めた者もある。
駿河町
駿河町1丁目及び3丁目は、新吉田川に沿いたる街で、災前は戸数約100、人口約500を有して、材木・店・運送店などの多い町である。激震起こるや、全町の家屋約八分通り倒潰し、護岸は道路と共に崩壊し、武蔵橋・横浜橋は何れも大破した。尋(次)いで3個所より出火し、吉岡町方面に延焼して、全町残らず焼失した。住民の多くは大破した橋々を渡り、更に中村川の橋々を渡って、中村町の丘地に遁(逃)げ上ぼったが、横浜・武蔵の2橋に火の掛った後は、悉く日本橋を渡り、若くは川舟の助けを得て、辛くも遁(逃)れた。河水中に浸って一命を取止めた者も少なからずあった。死者50人、其の多くは第1震で圧せられた者である。…… 以下、省略
(旧字体を新字体に変更、漢数字をアラビア数字に変更、( )内は追加)
吉岡町と駿河町は明治6年11月に設置された街ですが、昭和3年に廃止され、現在は中区の曙町や弥生町になっています。
吉岡町 吉田新田埋立地へ設置。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。現在の中区曙町3,4,5丁目の大部分。
駿河町 吉田新田埋立地内に設置。昭和3年9月1日町界町名整理の際に廃止。現在の中区弥生町1,2丁目にあたる。
(横浜市中区役所ホームページ 「中区の町名とそのあゆみ」より)