作成:2015/6
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-23
写真1 玉泉寺 入口
写真2 道路に面し塀で囲まれた場所に、三界萬霊壇がある
写真3
厄除け地蔵尊は三界萬霊壇(石仏・石塔群)の最上段中央付近にある
写真4 同上
写真5 厄除け地蔵尊
2015/5撮影
玉泉寺は大慈山と号する古義真言宗で薬師如来を本尊とします。本堂は江戸時代中期に建立され、明治20年に修繕されたものでしたが、関東大震災で延焼焼失しました。
玉泉寺のある中村町東部(当時の字で、東・中居・八幡・中村・山谷で、現在の中村町1丁目~4丁目および八幡町・山谷付近に相当)は倒壊家屋が3分の1程度と倒壊率が比較的小さい地域でしたが、揮発物貯蔵庫などの火による延焼により、一部を除いて焼失しました。地元での死者は約40名でしたが、仕事先などでの死者が多かったといいます。(横浜市役所 横浜市震災誌 第二冊 1927 p156-157)
地蔵尊の基壇には、正面に「厄除地蔵尊」とあり、左側面には発起人、背面には上家(うわや)建設者の氏名などが刻まれています。上家建設者とあるように、当初地蔵尊は小屋の中に納められていたようです。
塔身の向かって左側面には施主として、田邉合資会社、田邉郷左衛門他6名の氏名が刻まれています。田邉郷左衛門氏は当時の檀家総代であり、同氏の名前は玉泉寺から南西方向に約300mの直線距離にある中村八幡宮の玉垣の石柱にも賛助員として刻まれています。この玉垣は昭和2年に玉垣奉献会が奉献したものです。(厄除け地蔵尊の施主である田邉合資会社、田邉郷左衛門、田邉佐太郎、白石鐡五郎、檮木輝忠は中村八幡宮の玉垣奉献賛助員として重複しており、地区民のお寺と神社への関わりが想起されます。 中村八幡宮については次ページ参照)
塔身の背面には、殃死者聖霊 中村東として、50名以上の氏名がありますが、石碑表面の風化・劣化によって人数さえさだかではありません。その左端には、「大正十三子年九……」という文字が辛うじて読めます。
塔身背面の「中村東」とは、当時の中村町字東で、現在の中村町1丁目付近でしょう。玉泉寺は当時の中村町字東にありましたが、倒壊後に、揮発物貯蔵庫などの火が延焼したために類焼しました。
災害の結果鰥寡孤独(かんかこどく)* となりし者の為に、市内中村町玉泉寺内に天幕張の収容所を仮設し、之を養老院と命名した。茲に22名を保護収容後、半永久的のバラックを建設してこれに移し、玉泉寺の僧侶に保護を委ねた。其後漸次増加した。
(大正震災志 p645より 旧字体を新字体に変更、漢数字をアラビア数字に変更、一部の送り仮名を変更、( )内は追加)
*鰥寡孤独(かんかこどく) 身寄りがなく、生活が困難な人。
その他の参考資料
横浜近代史辞典 大正6年発行 p888 玉泉寺の項