作成:2015/6

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横浜 Y-24

南区八幡町 --- 中村八幡宮の震災復興と戦災の跡 ---

  • 所在地:横浜市南区八幡町1
  • 対象物:石柱、玉垣、地蔵尊など
  • 交通:横浜市営地下鉄「坂東橋」より徒歩約13分(行程約850m)
写真1 中村八幡宮 鳥居周辺及び参道

写真1

中村八幡宮 鳥居周辺及び参道


写真2 階段の手前にある角柱 向かって左に「靈徳滋潤」 右に「神威彌崇」と刻まれている

写真2

階段の手前にある角柱 向かって左に「靈徳滋潤」 右に「神威彌崇」と刻まれている

写真3 石段を上り終えたところの角柱と玉垣

写真3

石段を上り終えたところの角柱と玉垣

写真4 社殿

写真4 社殿

写真5 

写真5

地蔵尊(右が関東大震災と戦災で被災した地蔵尊で、元禄11戊寅(つちのえとら)の刻字がある

2015/5撮影

中村八幡宮

中村八幡宮公式サイト(http://www.nakamura-hachimangu.yokohama/)より

祭神

譽田別尊(ほむだわけのみこと) (第十五代應神天皇)

天照大御神(あまてらすおほみかみ)

五丹大神(ごたんのおほかみ)

由緒

中村八幡宮の創立年代は不詳であるが、口碑によれば醍醐天皇の御代、延喜年間(約一千年前) には、既に此の地に奉祀され、八幡大明神と称したと伝へられる。

新編武蔵風土記には「八幡社棟地二畝二十八歩村の中程に建てり鎮守と五丹大明神を相殿とす。 是れ五丹大王を祀れるなり。玉泉寺持ち」とあり、明治六年村社に列せられた。

當宮は、古く神地神田等を有したが、明治十年地租改正の際、或は上地となり、或は散じたとされる。

源頼朝が鎌倉に幕府を樹て、鶴岡八幡宮を勧請せられてより毎年一回、幕府より當宮へも幣帛を 捧げられ、又北條氏に至っては、米穀又は田地を寄進されたと伝へられる。

震災時の状況

中村八幡宮のある中村町東部(当時の字で、東・中居・八幡・中村・山谷で、現在の中村町1丁目~4丁目および八幡町・山谷付近に相当)は倒壊家屋が3分の1程度と倒壊率が比較的小さい地域でしたが、揮発物貯蔵庫などの火による延焼により、約3,700戸中約3,300戸が焼失しました。また、八幡や東には崖崩れがあり、埋没者がでました。地元での死者は約40名で、他に仕事先などでの死者が多かったといいます。(横浜市役所 横浜市震災誌 第二冊 1927 p156-157)

震災復興と戦災の跡

石柱や玉垣など

中村八幡宮は地震動による被害は小破程度でしたが、建造物の全てを延焼により焼失しました。復興碑などは残されていませんが、石柱などに刻まれている文字から、震災後の再建であることが分かります。

石段手前右側の「神威彌崇」とある石柱(写真2)の背面には「奉献昭和二年十一月吉日之」と刻まれています。また、石段を上ったところの左側の石柱(玉垣 写真3)は玉垣奉献会によるもので、「昭和二年八月 吉祥」と刻まれています。これらは、震災から4年後に奉献されたものであり、震災復興として新たに建造されています。

その後、社殿は昭和8年に造営されましたが、昭和20年5月29日の大空襲で再び焼失しました。上記、「神威彌崇」とある石柱は、亀裂が入っており金属の枠で補強されています。自然の風化ではこのような亀裂が入ることはないので、空襲の衝撃や火災の熱がもととなって、損傷・劣化が進んだものと思われます。

地蔵尊

神社入口の鳥居の手前左側に、新古2基の地蔵尊が祀られています。これについては、斜め向かいの「懐古」と題した石碑にその由来が刻まれています。碑文の後半を抜粋して、下に示します。

…… 偶々境内の一隅に毀損しある地藏尊(大正十二年九月一日関東大震災及昭和二十年五月二十九日の大空襲*により被災)を拝し復現を思い立ち専門家に訊ねましたが毀損甚だしく不能との事でした依って今般宮司海老原寛殿及宮総代各位のご了承を得て平楽竹下石材店に地蔵尊の再現を依頼し完成しましたので謹しみて奉納致します

昭和五十九年四月

平楽 岩澤愛藏

* 昭和20年5月29日の大空襲 横浜市中区・南区・西区・神奈川区・保土ケ谷区・鶴見区、川崎市が被害を受けた大空襲で、死者3,787人(横浜市ホームページ 神奈川県下の空襲被害状況 出典:『神奈川県警察史』( 中巻)より)