作成:2015/6 更新:2016/3
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-25
写真1
中村川に架かる道場(どうじょう)橋 高架は高速神奈川3号狩場線で、中村川の上をこれに沿って延びている
対岸の中村町に字「道場」があったが、その地名はなくなり、現在は橋の名前として残っている
写真2 道場橋の親柱
写真3
道場橋を北側から南側に渡り、中村川の上流方向を望む
左側の白い建物は中村特別支援学校および中村小学校
この附近に広大な敷地の揮発物貯蔵庫があった
写真4
中村川に架かる久良岐橋より下流の道場橋方向を望む
右岸(右手)は中村町3丁目~4丁目(手前)
震災で久良岐橋は焼けなかった
写真5
震災後の建築物で旧中央衛生試験所 震災当時の衛生試験所はその前身
写真6
中村公園と中村川対岸の横浜市立大学市民総合医療センター
医療センターのある場所は震災当時は万治病院の跡地であった
写真7
横浜市立大学市民総合医療センター玄関前の石碑
石碑は十全医院の創立70周年を記念して建立されたものであり、来歴が要録されている
同時この場所は万治病院跡地でした 本文の【参考】萬治病院跡を参照
写真8
中村川に架かる浦舟水道橋と背後の南区総合庁舎(平成28年完成)
震災当時、総合庁舎の位置に第三南吉田小学校があった(震災復興小学校第1号の三吉小学校が大正15年に建設される その後、横浜市立大学医学部の校舎として使用される)
2015/5撮影
震災当時、中村町に道場という地名があり、「道場」には主な施設として神奈川県立揮発物貯蔵庫と衛生試験場がありました。
この地区は現在の中村町3丁目~4丁目にあったと思われ、現在は中村養護学校、中村小学校、中村公園、県警察機動隊、県立高校教員組合、県立埋蔵文化財センター、結核予防センターなどの公共の施設で埋められています。
道場橋は関東大震災で焼け落ち、国の施工の復興橋として昭和2年4月に架橋されました。現在の橋は昭和63年7月に架け替えられたものですが、親柱は復興橋のそれが復元されています(写真2参照)。
< 資料1 横浜近代史辞典 大正6年発行 p231より >
中村町に在り明治7年久良岐郡中村に6段3畝余りの地を買い上げて敷地となし8年10月開庫せしが爾来(じらい)石油の輸入増加し忽ち狭隘(きょうあい)を告ぐるに至りしより10年3月谷戸坂下元英国海軍兵用土蔵1棟を右構内に移したるが12年6月に至り石油の輸入益々増加し更に30万函を貯えるべき大倉庫の必要を生じたるを以って同所地続きに4,859坪敷地を増し以って今日の如き設備をなしたるものなり
< 資料2 横浜震災誌資料1 中村町西部の項 p155より >
……南に向かった火の手は、青年団員その他必死の努力によって辛くも消し止めたが、東に廻った火の手は遂に字道場なる県揮発物貯蔵庫の大建物に燃え移り、当地域のみにて450戸を焼失した。揮発物貯蔵庫の燃え盛る光景は凄絶を極めた。無数の油槽は大音響と共に爆発し、火になった揮発油は、中村川に流れたので、川中は一面火となり、橋を焼き、舟を焼き、殊に対岸第三南吉田小学校々庭の集団避難民を焦死せしめた。火は容易に消えず、1週間の間燃えつづけていた。……
< 資料3 横浜震災誌資料1 南吉田町東部の項 121-122より >
…… 道場橋は重油の火で真っ先に川に流れ落ちた。三吉橋は3時半頃焼け落ちた。
この地域の人の避難場所は中村川の橋を渡って、中村町又は堀之内の丘に遁げ込むより外に道はなかったので、辛くも焼け残った久良岐(くらき)橋と、千歳橋とは、この地域の避難者に取っては生命の綱であった。青年団員の決死的活動に依って、向こう岸へ、川船に乗せられて渡された避難者は、2千以上であろう。逃げ遅れた人々は、中村川の沿岸の萬治病院跡*の広場や、第三南吉田小学校**の校庭に逃げ込んだが、ほっと一息つくまもなく、向こう岸の中村町の県揮発物貯蔵庫に火が入ったので、火になった重油は流れ出して、四辺一面を火と化して終った。猛火に包まれてしまっては、避難者たちはもう絶体絶命であった。男たちは燃えている道場橋や、三吉橋を渡って、辛くも向こう岸に辿りついたけれども、老人・女・子供にはそんなことは出来ないので、そのまま焼死したのである。
【参考】*萬治病院跡 伝染病の隔離病棟を持つ萬治病院は震災の前年に現在の磯子区滝頭1丁目に移りました。震災の翌年に十全医院がこの跡地に仮病舎を設けて移転し、大正15年には本館が竣工しました。十全医院は横浜市立大学医学部の前身で、現在その地は横浜市立大学付属市民総合医療センターになっています。医療センター入口左側には十全医院の来歴を要録した石碑(創立70周年記念 昭和17年建立)が建っています。
**第三南吉田小学校 資料5の震災被害図によると、現在の南区総合庁舎のある位置に第三南吉田小学校があり、現在の南吉田小学校の位置に第一南吉田小学校と第二南吉田小学校がありました。第三南吉田小学校は、萬治病院の東側隣の隣の区画で、萬治病院と同様中村川に面する位置にありました。
なお、南区総合庁舎1階受付前のコーナーには関東大震災以後の出来事が紹介されています。これによると、庁舎のある場所は震災復興小学校の第1号である三吉小学校(大正15年建設)のあった場所とあり、第三南小学校と三吉小学校との関係ははっきりしません。
< 資料2 大正震災志 p591-592より >
揮発物貯蔵庫は全棟28棟で、此の内には石油・機械油・パラピン油・松脂精・揮発油・カーバイト等が多量に収蔵してあったが、附近からの飛び火に依りて火災を起こし、同時に揮発物に移火して大爆発となり、悽惨の光景を呈した。
県揮発物貯蔵庫および衛生試験所などの焼け跡には、震災救護関西府県連合により仮病院とバラック(仮設住宅)が建設されました。
< 資料3 横浜の関東大震災 より >
さらに横浜では医療機関の不足が特に深刻だったため、関西府県連合では、8府県で、まず患者1,000人を収容できる仮病院を横浜市に建設することに決めた。そのため、9月10日に大林組と請負契約を結んで工事を進めさせた。
大林組では、関西府県連合の病院ならびに応急住宅のバラックの建設を特命で受けると、木材は全て大阪で加工し、現地では組み立てだけをやる計画を立てた。そして大阪市有の2万坪の地所を借り入れ、2,000人以上の職人を動員して昼夜兼行で材料の加工を進めさせた。6日には汽船玄海丸をチャーターし、社長以下多数の社員、大工が東上し、さらに、汽船あるたい丸をチャーターしてこれに加工済みの材料を積み込み、大林組の社員職工に大阪府の技術者も乗って13日に出航した。船は暴風雨のため遅れたが17日に横浜港に到着した。(『大林組80年史』)
そして20日までに中村町衛生試験所跡の後片付けを終わり、21・22日に上棟、26日に工事を完成させ、大阪府ほか1府6県連合震災仮病院として10月1日に開院した。仮病院は大阪から派遣された澤村栄美院長以下のスタッフの手で医療が行われた。開院に先立って澤村院長名で、仮病院は破壊された横浜の病院に代わって医療を行うためのもので、震災による以外の傷病の治療にも応じますとのお知らせが市町村に配られた。そして、予定の3か月間に約1万人、延べ3万余人を診療し、12月20日に神奈川県に財産一切を寄付して仕事を引き継ぎ、新たに神奈川県臨時病院の名で診療が継続されることになった。
< 資料1 横浜市震災誌 p156より >
字道場の揮発物貯蔵庫の焼け跡には関西諸府県連合寄贈のバラック数10棟の(が)建築されたので、罹災民の幾千世帯が、永らく此処に移住して、バラック村を形成し、集会所・浴場・売店等種々の共同施設も出来て、誰云うともなく関西村と称せらるるに至った。
< 資料3 横浜の関東大震災 より >
9月5日に大阪府の主唱で、京都、兵庫、奈良、和歌山、滋賀、それに四国などの諸府県が加わって、震災救護関西府県連合が結成され、共同して物資の調達、輸送などの救援にあたることになり、それまで比較的に閑却された横浜への食糧輸送などの救援に重点がおかれた。8日には罹災地の住居不足に答えて、東京に300棟、横浜に200棟の罹災者用急造バラックを建設して寄贈することを決めた。東京では組立作業は自前でするとのことで、建築資材だけを送り、横浜にだけ建設して寄贈することになった。損害は大きいとはいえ、被災の軽微な地域がかなり残った東京と、全滅した横浜とでは事情が大きく異なっていたのである。
バラックについても、横浜向けの建設準備が優先的に進められ、あんです丸にやはり技術者、職工、食料などと一緒に積み込まれ、9月24日に出航した。そして10月4日に建設を始め、27日に完成させた。仮病院横に関西村と名付けた52棟のバラックを建設したのをはじめ、65カ所に1棟60坪のを、200棟、計1万2千坪のバラックを建設した。兵庫県・神戸市は別に横浜市に建設寄贈した。そのバラックは、47棟2,800坪である。
参考資料
資料1 横浜市震災誌 第二冊 横浜市役所 大正15年8月
資料2 大正震災志 内務省社会局 大正15年2月
資料3 今井清一 横浜の関東大震災 平成19年
資料4 磯子の史話 磯子区制50周年記念事業委員会 昭和53年 p288~292 万治病院のいまむかし
資料5 横浜復興誌 第二編 震災被害図(付図) 昭和7年3月 横浜市役所
資料6 1/3,000地形図「山下町」 昭和7年3月測図 横浜市土木局
<資料1>~<資料4>、<資料6>は、旧字体を新字体に変更、漢数字をアラビア数字に変更、一部の送り仮名を変更、( )内を追加した。<資料5>,<資料7>は漢数字をアラビア数字に変更 原典はいずれも縦書き