作成:2014/1
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-17
写真1
天徳寺入口 本牧山頂公園の一角にある
写真2 震災殃死者供養塔
震災殃死者供養塔は宮原衛生組合と宮原青年会によって建立されたことが碑文よりわかります。宮原とは天徳寺の北側に隣接する地域で、現在は本牧宮原という地名で残っています。
資料より、宮原についての記述個所を抜粋します。
<資料 横浜市震災誌 横浜市役所 第二冊 1924(大正15年)より>
本牧町の東北部を成せる字箕輪・箕輪下・天徳寺・宮原・十二天・原の6字の中、箕輪下・宮原・十二天・原の大部分は市街地で、稍々(やや)賑わっているが、その他は概ね丘陵又は草原で、人家は至って少ない。災前の総戸数1200余、その多くは住宅であるが、電車沿道には商店がある。海浜には別荘・料理店等も少なからず、所々漁家もある。夏季には海水浴場も開かれる。
震災の影響は箕輪下・十二天・宮原及び原は概して激甚で、全潰・半潰合わせて全戸数の約7分通りに上った。 …(中略)… 火は箕輪下の電車路を挟んで約50戸を焼き、北方町字泉に延びて16戸を焼いた。その他別に字原と宮原に延焼し、321戸を焼失した。この中71戸は宮原の罹災で、宮原では青年団が総掛りでようやく消し止めた。箕輪でも別に離れて12戸を焼いた。本地域全体の死者は地元で20数名、その多くは宮原及び原に於いてであるが、この外、他所に出て遭難した者があった。(現代仮名づかい、新字体に改め、漢数字をアラビア数字とした ( )内は追加)