車上少年過ぐ(中部日本縦貫)
2004年4月29日・30日 搭乗車種:サニー
酷道は招くよ
旅立ちは黎明
うだつの街並み

郡上〜白鳥

桜と湖と古民家

156号よ、またの日まで
氷見とブリ
七尾の不覚
それは、地獄行きの切符だったか

能登の先端で哀を叫ぶ

そこに諸行無常の響きはあるのかい?
初日終了
かなざわ散歩道
城と庭のある風景
分岐点
城とはどうあるべきか?
帰名古
ネタが不良債権化するとき




 国道と言われて誰しもが思い浮かべるのは、よく整備された走り易い道だろうが、数ある国道の中には酷い路線もある。俗にそれらを揶揄して酷道と言う。当然のことながら酷道にもピンからキリまである。一般的に言われる程度の酷道であれば、「センターラインが無く路側帯も無い幅員の狭い道、対向車とのすれ違いには気を使う」レベルでのものあろう。しかし、幸か不幸かこの国には、その程度のレベルはぶっちぎりで超越してしまった特ピン酷道(特キリ国道)が存在する。そして、綺羅星のごとく居並ぶそれら特ピン酷道の中にあって、なお一際妖しい輝きを放つのが、中部地方にある国道157号線である(念のため断っておくと、全線が酷道区間というわけではない)。手元の地図を見ただけでも、157号線沿線には「舗装が荒れダート化」、「路面を川が流れる」、「断崖の極狭路」など、刺激的な文言が踊り狂っている。かりそめにも国道(酷道)活動を志す者なら、一度は走っておくべき道だ。問題は、この酷道区間が冬季閉鎖区間となっていることである。例年、12月ごろから明くる年の4月末あたりまでが閉鎖期間となるらしい。4月末と言えば、ゴールデンウィークだ。そこでこの連休に、157号線を中心に、北陸の諸国道を走ってみようと思い立った。北陸は、私自身の古き戦いの地でもある。以上が、この旅の動機だ。
 
 157号以外の北陸諸国道とは、具体的には156号、160号、249号を想定していた。経路としては、岐阜市からまっすぐ北上して富山県高岡市を目指し、そこから能登半島東岸に入った後、半島を一周して金沢へ。その後白山山系を南西方向に迂回して再び岐阜に帰着する形になる。問題は宿だ。全行程は700km近く、同じ場所を二度通ることもまず無いであろうルーティングなのに、宿泊地候補となりそうな場所が金沢以外に無い。つまるところ日程と予算の都合だ。観光地・能登の各所には、旅館や観光ホテルは多いが、貧乏旅行客向けの安いビジネスホテル、そしてそれよりさらに格の落ちる24時間サウナ・健康ランドの類を期待することができない。移動は日のあるうちにしたいのだが、夕刻に金沢につくためには、早朝に家を出なければならない。前述のルートで岐阜から金沢まで走ると、移動だけで約12時間かかる。かくて名古屋発は朝4時に決定したのだが、そうなるといつものレンタカー屋を使えない。やむなく24時間営業の某系列店で車を借りることにした。このチェーンの料金体系は、割安感はあったが、低価格帯の車にはオプションをつけることができないとの事。当然のごとく普通車最低ランクで予約したため、カーナビ無しでの旅となった。まぁ、ある意味では自分の庭のように走り回ってきたところに出かけるのだから、ナビが無くても大勢に影響はあるまい。「車上少年過ぐ 世平らかにして閑多し 残躯財布の許すところ 楽しまずんば是如何」などと諳んじながら往くに相応しい、思い出の道を駆け抜ける旅だ。

 当日、用意された車を見てびっくり。日産のサニーだった。どうも私のニーズに応えてくれる車であるとは思いがたい。天下の酷道157号に挑む旅である。同一価格帯にランクしていた車であれば、車体の小さなマーチかヴィッツあたりが希望だった。サニーには、どうもファミリー向け大衆車のイメージがある。4人乗り込んでもなお余裕のありそうなサイズと手ごろな価格が身上なのだろうが、何せこちらは一人旅である。それではせっかくの売りも意味が無い。その上、日ごろ乗り付けているトヨタ系の車とは異なる車両感覚と言うか操作感にも、最後まで悩まされる羽目になった。

 東海地方の4月5月は、日の出が午前5時前後になるらしい。せっかくだから、156号線の起点である岐阜市を、日の出と共に発ちたい。名古屋発が4時過ぎだったから、正味1時間を切った時間内に名古屋から岐阜へ移動する必要がある。下道を行けば、名古屋の都心を突っ切った後、22号線を北に向かうルートになる。少し考えた末、余裕を持って移動するために高速利用を決意。名古屋ICから東名高速に乗り、そこから4つ先のインターチェンジになる東海北陸自動車道・一宮木曽川ICで高速から降りた。他地域の人には意外かもしれないが、岐阜市はどういうわけか高速道路縁や新幹線縁が無い土地だった。最近になってようやく通った高速道路が東海北陸道なのだが、結局岐阜ICは出来なかった。

 156号を起点から走ろうと言うのなら、一宮木曽川ICで高速を降りなければならない。降りたところはまだ愛知県内だ。少しばかり22号線を北上し、木曽川を渡った先が岐阜県である。さらに進むと、21号線との交点・岐南交差点がある。今回の旅は、一応ここを本格的なスタートとする。

 高速道路を走っていた時から、空は白々明けかかってはいたが、写真撮影をするには少々暗かったらしい。道レポート用に沿道風景を撮影はしたものの、標準露光時間で撮影した結果、非常に黒っぽい画面となってしまった。どうにか撮影に耐える明るさになったのは、岐阜市、関市と抜けたさらにその先、美濃市に入ってからだった。なお、156号を走るのはこれが初めてではない。今を去ること3年程前には、月に1、2度の頻度で走っていた道だ(美濃飛騨編参照)。進行方向こそ今回の旅とは逆のことが多かったが、走り慣れた道には違いない。その反面、沿道の名所・旧跡をほとんど訪ねたことが無いのもまた事実である。美濃市にはそうした旧跡のひとつ、うだつの街並みがある。これは、156号線からすぐそこの脇道にそれた一角に存在している。うだつとは、古民家(と言うより実物を見る限り商家と表現した方が適切かもしれない)の1階などの屋根(庇)の部分に取り付けられた壁のような構造物のことで、隣家が火災にあった場合に延焼を防ぐ効果を狙って作られた防火壁のことだ。「うだつがあがらない」と言う言葉はズバリここから来ており、うだつを作るにはそれなりの資力が必要とされたため、うだつをあげられるのはひとかどの人物、うだつのあがらないのはパッとしない者、と言うようなところから始まったらしい。うだつの街並みは観光スポット化されているが、時間が時間、午前6時前である。店が開いていないのは勿論のこと、人っ子一人、猫の子一匹出歩いてはいなかった。

 美濃市はかなり内陸部に入ったところに位置しており、あたりを見回しても山が目に付くが、それでも濃尾平野の端と位置付けることも出来るだろう。しかし、その先の郡上市(旧郡上郡)にまで入ると、完全に山間の町と呼ぶにふさわしい雰囲気となる。156号線の美濃郡上市境はちょうどトンネルになっているが、このトンネルを抜けると、左右は山、背後も山、進む先にも山が幾重にも折り重なっているのが見える状態である。ちょうど時期だったので、このあたりでは進行方向右手を流れる長良川の上に、両岸に渡したロープにたなびく鯉のぼりが見えた。近隣には小学校があるらしく、その関係だったのだろうか。非常にのどかだった。

 現在は郡上市となっている旧郡上郡で、もっとも知名度のある自治体だったのは八幡町ではないだろうか。このあたりは完全に独断と偏見によるので異論もあるだろうが、やはり郡上八幡のネームバリューは相当の物だと思う。特に、夏の盛りに夜毎踊りつづける総踊りは天下に名高い。もちろん、ゴールデンウィークの初日に八幡へ出かけても、誰一人として踊ってなどいないが、踊りが全ての街ではない。八幡は奥美濃の小京都だ。その古い街並みには、えもいわれぬ魅力がある。私自身は、町外れの高台にある郡上八幡城にしか行った事が無く、この機会に八幡の町に入り込んでみた。ここまでの流れで察しのいい人なら気づくだろうが、町はまだ眠っていた。当然だろうなあと納得しつつ、再び156号線上に戻る。名古屋から八幡まではたいした距離ではない。そのうちにまた遊びに来ることもあるだろう。

 個人的に、道そのものには随分見慣れてしまった感のある156号線だが、早朝の時間帯に走ってみると少し新鮮だ。昇る朝日に山々の新緑が照らし出される様は、見ていて清清しい。道も白鳥あたりまで来ると、いよいよ前方を遮るように山が迫ってくる。峠越えの直前、道の駅白鳥で、一旦小休止とする。ふと気が付くと、駐車場の脇で桜が咲いている。葉っぱが目立ち始めてはいるが、まだ花がついているのである。名古屋の桜は数週間前にはすっかり散っていたのだが、さすがに「さくら道」である。春先の時期を見計らって走れば、沿道のどこかで桜の花が咲いているに違いない。かなり山奥まで走ってきたし、やはり平野部に比べると気温が低いのだろう。花が残っているのはそのためだろうし、はっきり言って寒かった。涼しいとか肌寒いとかではなく、はっきりと寒い。よくよく見てみると、道沿いに温度計がある。その温度計が示していた気温は1度。寒いわけだ。朝とはいえ、普段の感覚で行けばとても4月終わりの気温ではない。

 白鳥の北部には、今までに無く上り坂が連続する区間がある。長良川の最上流部もこのあたりである。坂を登りきったあたりが、旧高鷲(たかす)村のひるがの高原で、分水嶺となっている。元来、スキーリゾートか避暑地として賑わう場所なので、大型連休とはいえ春先にその本領を発揮できるのかどうかは定かではない。周辺の様子からは、あまり人の入りがある風には見えなかった。もっとも、例のごとくこのあたりを走ったのも午前7時少し過ぎと言う早い時間帯だった。そのように見えるのも、致し方の無いことではあろう。

 さすがにひるがの「高原」と言うだけあり、ここに来るまでの上り坂は峠道というのとは少し違う。上りきった後はストンと落ちるのではなく、最高点まで進んだ後はほぼそのままの高さを維持しつつ、先へ先へと道が伸びている。そうしてたどり着くのが、大野郡荘川村だ。小さな村で、東海北陸道荘川IC近くに集落が発達している他は、民家もあまり多くない。この村の北には、御母衣ダムによってせき止められた御母衣湖がある。そして、その湖畔にあるのが荘川桜だ。この道を走ったことは何度もあるので、木そのものは幾度となく見ている。しかし、桜が咲いた状態の物を見たのはこのときが初めてだった。そして驚くべきことに、この2本の桜の周りに併設されていた駐車場は、すでに満車状態だった。二十台以上は停められるような駐車場だったはずなのだが、すでに車があふれ気味だった。たまたま、目の前に停まっていた車が駐車場から出るところに居合わせたため、駐車場内で空きを待つことはなかったが、人というのは早い時間でもいるところにはいるものだ。時計を見ると午前7時半少し過ぎ。桜の周りには、ベストアングルでこれを写真に収めようとする俄かカメラマンが群がっている。

 さて、この荘川桜の樹種は、一般的なソメイヨシノではなく、エドヒガンである。ソメイヨシノは平均100年もすれば枯死する。樹齢400年以上を数える荘川桜ほどの長命を保つのは、まず無理であろう。その荘川桜であるが、湖岸の猫の額ほどの土地に立っている関係で、花見に付き物の露天などは近くにほとんど存在せず、本当に花見のための花だった。ゴールデンウィークの時期でも花を付けている事が多いので、その点遠来の客にも都合がよいが、さすがに盛りは過ぎたと見え、散り始めの様子だった。間近で見ると、葉が目立つ。

 荘川桜は、木そのものは見事であるとは言え、周辺をそぞろ歩いたりする楽しみ方とはあまり縁のないもので、ひとしきりそれを眺めた後は、再び先を急いだ。荘川桜後しばらくの区間は、対向車との離合に神経をすり減らす狭いトンネルが続き、やがて御母衣ダムの脇を抜ける。御母衣ダムの正面直下には集落が発達している。どうしても唐突に開けた感が否めない集落だが、おそらくはずっと昔からこの谷間に続いてきた集落なのだろう。そしてその真中に、巨大なロックフィルダムが築かれた。岩壁の向こう側は湖底に沈み、こちら側は人々の生活の場でありつづけた。そういうことなのだろう。それにしても、もしダムが決壊したら…と、不安にならずにいられない立地だ。

 御母衣ダムは、庄川の流れをせき止めるダムである。その庄川の流れに沿って下っていくと、世界遺産に登録された荻町の合掌集落に至る。ここもすぐ横合いを走り抜けたことは幾度もあるが、集落内をじっくり見て回ったことはない。荻町の間近に迫ったのが午前8時ごろ。微妙な時間帯だったが、やはりまだ店などは開いていなかった。このあたりの合掌民家は、基本的には現住住居だ。家の主たちの暮らしがぼちぼち始まろうとしている気配はあったが、観光をしようという雰囲気ではなかった。その先にあった菅沼合掌集落にしても同様だった。途中、道百選に選定されている五箇山トンネルに寄り道したりしながら、庄川沿いの峡谷地帯を抜け、砺波平野へ。

 山間を走る時間が長かっただけに、平野部に出るとやはり開放感がある。特に砺波平野南部は民家の少ない農村地帯で、視界を遮る物も少ないので非常に広々とした感じである。砺波のあたりには散居村と呼ばれるやや特殊な形態の集落が広がっている。通常の集落は、主要な道筋に沿って民家が集中する傾向があるが、砺波の古い集落は散居の名が示すそのままに、あちこちに民家が点在する形になっている。もっとも、普通は言われてみて始めて気がつく程度の物だろうし、ある程度旅慣れて農村風景を見慣れた人であっても、当地を訪ねたときに正体の良くわからない、ちょっとした違和感を感じる程度であろう。

 156号線の終点は高岡市であるが、この街で見る物と言ったら日本三大仏の一つに数えられる高岡大仏と、加賀藩の支藩であった高岡藩の高岡城跡・古城公園あたりか。ただし城跡の方は現在普通の公園となっているようで、さほど城跡らしい遺構は残っていないらしい。大仏の方は、一応近くまで行ってみたところ、寺の境内に入らなくても、近くの路上から見ることが出来た。露座の大仏なのである。日本三大仏と言うが、残りの二つは当然、奈良と鎌倉のものなのだろう。鎌倉大仏と比べると一回り、奈良に対しては二回りほど小さく、失礼ながら見劣りはすると思う。日本三大仏とは、日本の大仏三傑なのか、大仏も小仏も全部ひっくるめて、とにかくすばらしい三体の仏なのか、いったいどちらなのだろうと怪訝に思ったりもした。

 さて、高岡市にたどり着いたところで156号線も終わり、この国道旅行も第1ステージを終えたと言ったところなのだが、第2ステージは間髪入れずに始まる。次は160号線だ。

 160号は、高岡市と石川県七尾市をつないでいる。経由地は富山県氷見市のみで、端的に言ってしまえばそれほど特色のある道路でもない。今回の旅の中での位置付けに言及するのであれば、あくまでも第3ステージまでのつなぎと言うことになる。高岡市内の160号終点発が11時少し前。氷見市は漁業の街である。冬場のブリが有名だが、海の味覚には年中事欠かない。4月ごろならほたるいかだろうか。でもやはりブリを食いたい。ブリちゃんのCDでも作って来れば良かったかな、などと馬鹿なことを考えたりもする。時間も時間だし、早昼に海の幸と洒落込もうなどと考えていたのだが、氷見市街は瞬く間に過ぎてしまった。間もなく郊外地に入り、食事処はおろか、民家さえも数えるほどと言うありさまになってしまった。仕方なく、海沿いの道を七尾市まで進んだ。七尾まで行けば、吉野家でもファミレスでも何なりとあるだろう。七尾着は、ちょうど12時ごろになるはずだ。海の幸に後ろ髪を引かれながらの道行きとなったが、開放的で眺めが良いのが救いだった。

 かくして七尾市に入ったのだが、道すがらに吉牛もファミレスもなかった。考えてみれば、七尾に来るのはこれで二度目である。学生時代の四年間を金沢で過ごしたのに、である。それぐらい縁遠い町だったのだ。これまでは、脇をかすめたのがせいぜいだった(能登半島編参照)。これはコンビニ飯になるだろうかなどと思いつつも、気を取り直していかなければならない場所が、七尾にはあった。七尾城址である。山上の城で、現在は石垣が残っている程度だが、日本五大山城の一つである。高岡城址とは重みが違う。携行したロードマップを見ても、ちゃんと「七尾城址」と明記されているから、ドマイナー城と言うわけでは勿論ない。ところがどっこい、この七尾城址が曲者だった。途中までは目立つ看板もあるのだが、七尾市郊外の田園地帯まで来ると、道案内が怪しくなってくる。一目で見てわかるような目立つ看板はなくなり、道しるべ程度の簡素な案内が叢の中に立っているだけというようなありさまである。「大手口」と言う看板に惑わされ、明らかに乗用車で入るべきではない荒れ果てた林道のようなオフロードに迷い込んだりした挙句、七尾城本丸近くまで続く細いなりにも舗装された道を見つけ出し、30分近い迷走は終わった。えらく苦労してたどり着いた七尾城だが、なるほど、なかなかものである。城としての遺構は前述の通り石垣の一部+削平地程度だが、展望がすばらしい。この地の支配者・能登守護職の城には相応しい立地だったと言える。

 七尾城探訪に思いがけず時間を取られ、次の目的地に向けて走り出したのは午後1時近くだった。まあ、次の目的地と言っても、七尾まで来たとなると次にすることは249号線走破である。目的地云々と言うより、ひたすら先へ先へと進んでいくより他にないのだが。

 249号線は、159号線と接続することで、能登半島を一周する道路だ。七尾から先、輪島あたりまではすでに走ったことのあるルートで(能登半島編参照)、今回はその時に訪ねられなかった名勝・旧跡に行ってみるのが主たる目的の一つとなっている。計画段階で訪問予定地にあがっていたのは、のと鉄道松波駅、能登半島最北端・碌郷崎、奥能登の名族の邸宅・上時国家、千枚田、間垣の里、能登金剛あたりだった。いずれもほぼ経路上に存在するポイントなのだが、七尾で時間を取られてしまった関係で、いくつかは割愛せざるを得まい。そんなことを考えながら、前回の教訓を元に七尾市内で給油を済ませ、先へと進む。

 石川県が主要な舞台となった大河ドラマ「利家とまつ」のまつが使っていた「まつワープ」にちなんで、この旅行記では松波駅までワープ。実際に走れば1時間強ほどかかる区間だ。七尾側から見て、松波駅の一つ向こうは恋路駅になる。そのため、ここ松波駅では恋路行きのメルヒェン(能登半島編参照)な切符を買えるのである。恋路駅自体もごく普通の駅として機能しているので、和倉駅で買おうが蛸島駅で買おうが、恋路駅までいける切符は恋路行きの切符には違いないのだろうが、おそらく和倉駅などで買った場合は「和倉→○○円区間」というような表記がされていて、たとえその切符で恋路駅まで行くことが出来たとしても、その切符のどこにも「恋路行き」とは記されないのだろう。だが、恋路の両隣の駅で売られている恋路行き切符は根本的に仕様が違うようだ。「恋路行き」とかいてあるのは勿論のこと、分厚い。写真がプリントされている。恋路の駅で幸せの鐘が「二人」を待っている旨が明記されている。サイズはJRの窓口売り切符並なので結構大きい。こんなラブリースウィートな物を買おうと言うのである、私は。

 松波駅は、過疎化の進む能登半島の先端近くにあり、当地が置かれた事情を如実に語りかけてくるかのような佇まいであった。無人駅と言われてもおかしくはない。事実、のと鉄道には松波駅によく似た規格の駅も多く、そのうちのかなりの部分が無人駅だ。果たして駅舎の中に人がいるのだろうか。いや、それ以前にすでにこの区間が廃線になっていたりはしないだろうか。さまざまな思いが脳裏を去来し、そのことが私の歩みを停滞させる。が、ついに意を決して駅舎の中へと向かった。

 !!!!!!!!!

 まず視界に飛び込んできたものは、この地域の特産品と思われる品々が並べられた陳列棚、能登観光の促進を目的としたと思われるポスターなどだった。駅舎のはずが、完全に土産物屋化している!一瞬、入る場所を間違えたかと思ったほどだ。その雑然とした空間の一角にはしかし、切符売り場があった。自動販売機もあったと記憶しているが、その横には改札兼対面式券売所らしきコーナーがあった。奥には、「駅員」と呼ぶには少し趣の違うおばさんが座っていた。

「恋路行きの切符、下さい」

 私は、恥ずかしげもなく言った。

「二枚ですか?」
「一枚でいいです。」
「じゃあ、貝殻を入れときますね」

 どうやら、普通は2枚一組で買う物らしい。恋人向けなのだから、まぁ当然と言えば当然だろう。要は、縁結びグッズなのである。そしてこの時、縁結びグッズにおまけでつけられた貝殻の意味に、私は注意を払うべきだった。この貝殻が後に、思いもかけぬ苦境を招くことになる。なお、普通は二人分買うはずの恋路行き切符を一枚しか買わなかった私は、当の恋路駅には行かなかった。恋路駅の幸せの鐘が待つのは、あくまでも「二人」なのである。幸せな恋人たちであって、決してやさぐれた男一人などではない。

 松波駅を出て、次に目指すのは禄剛崎だ。しかしこの禄剛崎は、能登半島の先の先に位置していて、249号線のルートからは大きく外れている。往復するだけで30km近くの回り道になる。ただ、禄剛崎までの経路上に信号が一つとしてなく、車の数も少ないので、小一時間もあれば行って帰って来られる位置関係となっている。

 249号から外れて禄剛崎へと向かうルートは、これまでの国道に比べればやはり整備が進んでいない印象だ。海に面して立つ家々のためにある生活道路のようでもあり、センターラインがなく、対向車との離合にはどちらかが路肩に車を止めて待たなければならないようなこともしばしばある。ひっきりなしに車が通ると言うことはないが、純然たる生活道路ではなく、日本海側から禄剛崎灯台へ向かう唯一のアクセスルートであるため、まったく他の車と出会わないと言うことはない。禄剛崎から曽々木海岸あたりまでの海岸線は、ごつごつした岩場が続いている。このあたりから船を出して漁をすると言うのはちょっと考えにくいのだが、しかし道沿いに見える家の生業は、やはり漁業のように見える。このあたりの家にも、海風を防ぐ為に苦竹をめぐらして作った「間垣」がある。この間垣は、海鳴りの音を和らげたり、湿っぽい海風の湿度を下げたり、防風壁という以外にもいろいろと働いてくれるらしい。輪島にある「間垣の里」は、一応訪問候補地ではあったが、249号の経路からは大きく外れ、そちらを回っていくとかなりのタイムロスを覚悟しなければならない立地となっている。ここまでのペースで進んでいくと割愛になりそうなので、とりあえずはここで間垣を見たことで良しとしよう。

 禄剛崎までの道は一本道なので、迷うことはまずない。しかしカーナビがない場合、地図と首っ引きで自車位置を確認しようにも、指標となりうるものがほとんどないので今自分がどこを走っているのかわからず、不安になる面はある。20分近く走って、いいかげん目的地にたどり着かないのだろうかと不安になり始めたところで、狼煙の駐車場があった。禄剛崎灯台がある岬の高台に上る上り口前にある駐車場だ。この駐車場前後は人家もまばらなプチ秘境のはずなのだが、えらく立派な駐車場で、駐車料金もそれなりだ。少々意外に思いながら車を停め、灯台に向かう。岬の突端までは、結構登りがあった。10分15分ほどの距離ではあるが、時間的余裕の無さから急いで登ったら意外と消耗してしまった。

 禄剛崎灯台は、三方を海に囲まれた岬の先端部分にある。当然のことながら、日本海を航行する船に陸地の位置を知らせる役割を負っていたのだろう。30km以上先にまで光が届くらしいのだが、訪問した際にはこの場所から海の上を走る船の姿を見つけることは出来なかった。見えるのは、水平線まで続く紺碧の海面ばかりだ。海の向こうはユーラシア大陸である。そして、その東端の地にかの邪智暴虐の将軍が治める国が(以下省略)と変に胸を篤くしたりしなかったり。まぁ、とにかく雄大な眺めが広がっていることには間違いない。そして、雄大だが何も無い。灯台も近くで見れば意外に小さな物で、そこに登ってみてどうすると言うような物でもない。と言うより、内部は一般には公開されていない。ぼんやりと風景を眺めながら過ごす、滞在型の観光地だろうか。時間が足りなくなりつつある状況で訪れる場所としては、都合が良いのか悪いのか良くわからない。本当に、行って帰って来ただけのような状況だった。ここを去ろうとした時、なぜか一抹の寂寥感が残った。人里離れた場所に位置していると言うこともあり(観光客はかなりいたのだが)、人恋しくなっていたのだろうか。

 なんだかんだで、249号に戻ったら3時近くになっていた。次に向かったのは、輪島市内に入って少し行ったところにある時国家である。平安時代末期、栄華を誇った平家一門は一族最大の実力者・清盛の死と源頼朝の挙兵に前後して衰弱し、ついに壇ノ浦で安徳帝、建礼門院、その他一族の主だった武将が命を落とし、滅亡の道をたどった。しかし、一門でも清盛に次ぐ実力者と言われた忠時は、生きて能登遠流(おんる)の身となった。とにもかくにも忠時は、都人の矜持は保ちつつ能登の僻地で慎ましやかに暮らしていたようであるが、心中穏やかでないのは頼朝である。頼朝自身も、かつての平治の乱のおり、あわや死罪というところで伊豆配流の身となり、雌伏の後に挙兵してついに平氏を倒したと言う経歴の持ち主である。そのために平氏一門を根絶やしにしなければ安心できなかったのか、忠時暗殺を企てたと言う。それを察知した忠時は山奥に隠棲した。知っての通り、源氏の治世は短かったが、隠遁生活から復帰したころには、すでに忠時の方も子の代へと代替わりしていた。この忠時の子時国が時国家を興し、以来この地を治め、江戸時代に入ると幕府か加賀藩だったかにこの地の領主(代官)たることを公認された。小さいながらも名門領主として名実共に認められたわけである。こんなエピソードもある。13代加賀藩主・前田斉泰は、その官職から加賀中納言と呼ばれていたのだが、ある時この時国家に来る機会があった。そして、この家の中に入ったとき、「自分は中納言であるから、この家に入るのは恐れ多い」と言って、天井の一部に紙を貼ってから建物の中に入った。「大納言忠国卿ゆかりの場所に上がるのは恐れ多い」の意味だと思っていたのだが、どうやら正確には天領の庄屋である上時国家の領主が大納言であるところの徳川将軍家だったからということらしい。時国家ではきちんと解説のテープが流れているものの、いい加減な聞き方をしていると思わぬ勘違いをしてしまう。

 時国家は、その江戸時代に建てられた旧領主(実際には天領の代官のようなものらしいが)の館である。旧領主の生活、平氏に連なる名族の伝統、能登地方の古民家の様式を同時に観察できるという、ある意味では欲張りな場所である。私はこの家から特に名門の気概のようなものを感じた。考えてみれば、江戸時代の殿様連中の多くは、氏素性のはっきりせぬ成り上がり者である。将軍以下立派な城に住んでいる大名たちのほとんどが、家格の高さ家柄の確かさおいては奥能登の隠れ里を束ねる小領主に遠く及ばなかったのだから、世の移ろいとは不思議な物だ。まさに諸行無常。もっとも、そういった予備知識が無くとも、渋好みにはお勧めできる場所だ。

 時国家の次に向かう場所は千枚田だ。それはいい。もとより249号線の道沿いだし、すぐ近くにポケットパークもある。「千枚田ポケットパーク」のその名の通り、実際そこから眼下に広がる千枚田を一望の下に出来た。雄大な眺めである。前回来た時はこの光景を眺めることもなかったので、長らく胸の奥につかえていたものがこれで下りたような気がする。だが問題はその先、輪島市街を抜けた先だ。249を大きく外れる間垣の里に寄っていく余裕は無くなった。出来れば寄って行こう程度に考えていた総持寺も無くなった。いや、そもそも当初目的であった「日のあるうちに金沢へ」もほぼ絶望的である。やはり、七尾での迷走が良くなかった。

 地図を見ながら、後はきびきび先を目指すことにしたのだが、どうやら輪島の町外れから羽咋市街までの道は未体験ゾーンになりそうである。七尾の隣、田鶴浜町から輪島市に至るまでは、珠洲市の一部区間をのぞいては、4年前とは言え走ったことがある。ある程度の土地鑑があったため、所要時間、自車位置、その他の見通しが立てやすかったのだが、この先そうは行かない。山間を走ったり海辺を走ったり、農村地帯を走ったり住宅地帯のはずれを走ったり、見覚えの無い区間を走っている時間と言うのは長く感じる。羽咋市の中心、気多大社に行った時などに通った記憶のある通りまで出て、ようやく先々の見通しが立った。計算してみたが金沢着7時前後は変えられない。七尾以降のがんばりすぎだ。道は羽咋かほく市境で159号線と合流し、移行終点まで159・249重複区間となる。事実上249が159に飲み込まれる形となり、心なしか道のグレードがあがったような気がする。ともあれ、こちらは何度も走った経験のある区間だ。何とはなしに懐かしい感覚を抱きながら津幡町、そして金沢市内へ。加賀能登の境界についてははっきりとは分からないが、津幡以南が加賀地方となるのだろうか。能登ともこれでお別れである。思えば、能登には古くて立派なものが多かったが、「魚のいない水族館」、「世界一長いベンチ」など、新しい動き・ランドマークはどれも苦戦気味だったような気がする。

 ところが、金沢市内の東部・森本地区に出るはずのこの道は、私が金沢を去ってからの2年ほどの間に大きく変貌していたらしい。見たことも無い真新しい高架道路を走る羽目になった。どうもまっすぐ進んでいくと、山を抜けて富山県の福光あたりまで進んでしまいそうな道だ。慌てて高架を降り、地べたの道を今来た方に引き返すと、見覚えのある森本付近の159号線に合流した。ここまで来れば、後は終点まで一直線だ。このあたりの159号線本線の走りにくさは相変わらずで、道路事情の悪さに辟易しながら武蔵ヶ辻交差点まで進む。これにて初日の行程は終了。

 249号ゴール後、昔なつかしチャンピオンカレー工大前店で夕食にLカツカレーを食べる。祝日(みどりの日)の午後7時過ぎであったため、対象時間の方が長いと言う不可思議なタイムサービスは適用されず、750円(サービスタイムは550円)の夕食となった。様本の駐車場を使わせてもらった関係で、金沢(野々市)くんだりまで来て「名城をゆく」を購入。

 問題は宿である。通例、オールナイトサウナ・健康ランドの類を利用するのだが、金沢近郊のそういう施設となると、4年間住んでいた町なのに心もとない。いや、住んでいたからこそ市内に「宿泊」すると言う観念が希薄で、そのための施設の記憶が朧だったのだろう。片町まで行けば確実にサウナはあるが駐車場の問題が発生する。ルネスの場合、宿泊には宿泊の為の施設が用意されているようなので、浴場側での夜明かしは厳しかろう。テルメもまた、料金体系とシステムが良くわからない弱みがある。結局、市街地の縁のあたりでオールナイトサウナを主張しているサンパリオを利用することになった。が、情けないことに場所がわからない。電話帳に書いてある「東力」という住所を見ても、具体的位置が思い出せない。昔は普通に接していた地名なだけに、隔靴掻痒である。仕方なく、こちらは道順を覚えていた宮丸書店金沢南店で市内の地図を立ち読みし、どうにかたどり着くことが出来た。後は風呂に入って眠るだけ、のはずだったが、夜半まで仮眠室の存在に気づかず、睡眠にはいささか不向きなリラックスルームでまんじりともせぬまま過ごすという不覚を取った。

 翌朝。サウナ・健康ランドで一夜を明かした後は吉野家で朝食を摂ることが恒例化しているので、吉牛を目指す。一夜を過ごすうちに潜在意識の奥底に沈んでいた金沢の記憶が少し筒呼び覚まされてきたのか、はたまた吉野屋は入るところが別だったのかは定かではないが、市内の吉牛分布図が脳裏に浮かんでいた。そもそも、サンパリオを出た目の前にすでに1軒あるのだが、それ以外では、金沢東IC近くの8号線沿い、杜の里、そして久安のあたりにも出店している。サンパリオから出ていきなり吉野屋に入るのもはばかられたので、とりあえず杜の里方面に向かってみた。久しぶりに入るコースだが、兼六園を過ぎたあたりから現地につくまでの風景にはさほどの変化は無かった。覚えている範囲ではコンビニの新規出店があった程度だ。印象深い変化はむしろその先にあった。なんとなく吉牛はスルーしてしまい、ジャスコのあたりまで走ったが、最近では「もりの里」と表記するようになったらしい。しかし、こうなったら朝飯はわが心の母校KIT近くの吉牛久安店で食おうと言うことになった。ちょっとばかり金沢大学のほうに入り込み、昔はあったはずの山が消えてなくなっているなあなどと思いながら方向転換。今来た道を引き返し、これまた久しぶりの小立野トンネルを突き抜けて犀川を渡り、泉野の丘陵地帯を抜けて有松に入り、久安に至る。昔と変わらず天を衝いてそびえるLCを見ながら、豚丼(並盛)を食べる。何しろ、早さを売りの一つとしている吉野屋である。10分ほどで食事は終わり、店を出るとまだ7時少し過ぎ。今日最初の訪問予定地、金沢城および兼六園の会場時間は午前九時。かなりの空き時間が出来てしまった。かほく市のほうにある末森城跡でも見に行こうかと思ったが、結局その時間は前日夜入りになったため写真撮影が出来なかった249号終点、そして今日走る予定の157号線の起点となっている武蔵ヶ辻交差点と、157号線沿いの犀川にかかる犀川大橋(在金中は知らなかったのだが文化財のようである)の撮影にあてることにした。

 香林坊大和の地下駐車場に車を停め、武蔵方面に歩く。道レポートの方でも触れたが、武蔵ヶ辻交差点の一角には、金沢の台所・近江町市場がある。在金中にも幾度か実家の連中の走狗として蟹などの買い付けに来たことはあったが、7時過ぎと言う早い時間帯にこの近くを通りかかったのはこれが初めてだ。いつ来ても人ごみでごった返しているイメージがあったのだが、このときは閑散としていた。少々意外だったが、市場と言ってもいわゆる魚河岸のような物ではなく、観光客や周辺住民向けに魚介青果を商う商店街のような物だったのだろう。改めて考えてみれば、構造上、大型トラックでやってきて大量買付けというプロユースには明らかに向かない市場だったのだが、これは盲点だった。そこからとぼとぼてくてくと犀川大橋まで歩く。武蔵近辺に接する南町はオフィス街、そのまた隣の香林坊は大型店舗が立ち並ぶ地区なので、2年余りの間にもそれほどの変化は見せていないようだったが、香林坊と犀川にはさまれた片町エリアは、ビルの1フロア単位で経営している飲食店の多い繁華街で、さすがに店の入れ替わりも多いようである。規模の小さい店が密集している関係でかつての風景を細部まで記憶していなかったこともあるが、それにしても随分見慣れない店が増えていたように思う。

 さて、犀川大橋であるが、鋼鉄製のアーチ橋で、確かに以前から古めかしい印象は抱いていたのだが、この街で暮らしていた時期には、気が付けば日常の中に溶け込んでいて、頻繁にここを渡りながらも注視する事はなくなっていた。しかつめらしく写真に収まっているのを見ると、なるほど、「らしく」見える。そこからさらに兼六園に向かう。手始めに、兼六園下で前田利家像を撮影。金沢を去ってから二年来、なぜ在金中にこれを撮影しておかなかったのかと心残りだったのだが、ここに至ってようやくその思いも晴れた。そして、その足で利家の城・金沢城へ。こちらに関しては、金沢に住んでいた期間中ほぼずっと、整備工事だとかで城内に入ることが出来なかったのだ。金沢城内にはもともと金沢大学があった。それを郊外の山奥に退去させ、地ならしを行ない、その昔この城に存在していた五十間長屋を再建するなど外部に公開できる公園の形にするために相当の時間がかかったのである。特に五十間長屋は、基本的には創建当時と同じ部材を使い、当時の建築技術を用いて再建されている。それ故、工事が長期化したのだろうか。

 金沢城公園に入るには、兼六園側から陸橋でお堀通りを跨ぎ、これは創建当時から保存されている重文・石川門をくぐる。城壁によって囲まれた城内は思いの外広く、一面に芝が敷き詰められている。建物は、入り口すぐ脇に休憩所がある他は、前述の五十間長屋が目に付くばかりだ。五十間長屋は横長のかなり大きな建造物だが、高さが無く、周辺のオープンスペースがかなり広いため、景観としてはやや間延びしている。城内に入るところまでは無料なのだが、五十間長屋の見学にはお金がかかる。この長屋は、建物そのものに展示物としての価値をもたせているのか、其処此処に建築技法に関する解説が加えられているが、調度品などはほとんど展示されていなかった。建物が長大なためにいたずらに空間が余り、どうしても冗長な印象を受けた。今後、建物そのものの他にも内部の展示品を充実させて行くなどするのだろうか。

 五十間長屋を出たあたりでちょうど良い時間となったので、ついに道路交通情報センターに電話をしてみた。ここに来るまで、157号線が全線走行可能か確認していなかったのだから決して段取りは良くない。週初めの段階では、雨が降っていた関係で土砂崩れでも発生したのか、不通区間があったようだ。それが復旧し、また、冬季閉鎖も解除されているか、微妙なところだった。

「道路交通情報センター、○○です。」
「道路情報についてお聞きしたいのですが、国道157号線って全線走行可能でしょうか?」
「157号線は現在、岐阜福井県境温見峠付近の区間で通行止めとなっております。」

 恐るべきクイックレスポンスであった。時期が時期である。事前に公表されていた内容によると、157号線の冬季閉鎖解除は4月末。そしてこの日は4月最終日であった。同様の問い合わせが相次いだか、あるいは相次ぐことを覚悟していたか、問い合わせがあってから内容を確認したのではなく、あらかじめ応えを用意していたとしか思えない間髪入れずの応答であった。もし酷道マニアの動向を受けてのことだったとしたら、マニアが背負った業の深さを思わずにはいられない。

 さて、157号線全線走破が不可能となると、今回の旅はどうしたって画竜点睛を欠くものになる。そうは言っても、せっかく北陸まで来たのだ。かつてはここに暮らしていたとは言え、今となってはおいそれと来られる所ではない。ここは貧乏根性を出して、国道活動なり何なりをしておくべきだろうと思い直す。今後の予定を練りながら、かなり上の空な態度で兼六園に向かった。

 兼六園には、大学入学直前の引越しの折、金沢に前日入りした時に行って以来である。時を得て、また石川県民であることが証明できれば無料で入場できるというこの庭園だが、学生時代の最後まで石川に住民票を移すことの無かった私は、大学在学中に一度もここへ来ることが無かった。痩せても枯れても愛知県民、石川に魂を売り渡すことはできなかった。そもそもそれとは別次元で、庭園にはあまり興味がなかったと言うこともある。このときにしても、すでに観光客として金沢に来ていたので、金沢を代表する観光地である兼六園に寄って行こうと言う気分になったのであるが、そういう「追い風」の状況下にあってもこの庭園にそれほどの感慨を抱くことはできず、特に心に残るものも無いままあっさりと園内を出てしまった。むしろ金沢を発った後のことを考えている始末であった。兼六園を出て、すぐ近くの石川県観光物産会館で油取り紙やら輪島塗の手鏡やら、お土産品を物色する。輪島塗、九谷焼、加賀友禅に和菓子諸々などはもちろんのこと、金沢は金箔の全国シェアの実に99%を生産しており、その過程で使用される油取り紙も名産品なのである。もっとも、過去に幾度となく聞かされたこの油取り紙の説明、それが金沢の名産品であることの説明としては少々論理の飛躍があるのではないかと思う。一大産地であることが謳われているのはあくまで金箔の方であって、油取り紙ではない。そればかりか、油取り紙がどこから湧いて来るのかについてすら言及されていないのだ。おそらく、日常的にこれらに接している人にとっては語るに落ちる内容なのだろうが。

 土産物選びが終わった頃には、今日一日これからの行動方針もまた決まっていた。結論から言うと、国道157号線を走ることにした。ただし、酷道区間の閉鎖はすでに分かっているので、起点から福井県勝山市に入った所まで走行するにとどめる。そこから日本最古の天守閣が残る丸岡城を訪問。時間的な余裕があれば、福井城(北ノ庄城)なり一乗谷館跡なりまで足を伸ばし、あとは高速道路で名古屋まで帰還というプランである。

 157号線金沢―勝山間がどのような道のりであるかについては、すでに157号単体のレポートとしてあるので、いまさらここで語る必要もあるまい。一言でいってしまえば、その区間のかなりの部分、山深い所を走り続けると言うことになる。道沿いには見るべきものもあるが、今回のたびではひたすら前に進み続けただけで、どこにも寄り道をしなかったので、ここに書くべきことも無いのである。

 兼六園を出てから2時間かからぬ程度で勝山市入り。金沢市から福井市まで8号線を使って2時間程度かかる距離であることを考えると、山岳ドライブコースでありながら8号線利用と比べても遜色ない程度の所要時間でこれほどの距離を移動できたと言うのは意外だった。信号もなく、この道を走るほかの車がかなりスピードを出していたのにつられて飛ばしてきたこともあるだろう。何にせよ、用途次第では石川福井両県の連絡路として選択肢の一つにしておいて間違いの無い道だと思う。

 勝山市で有名なのは大仏と城らしい。昨日の高岡と言い、変に大仏づいているような気がする(余談だが、今回は通らなかった石川県の加賀市には、群馬県高崎市張りの巨大観音像がある)。一応、両方偵察くらいはしておこうと地図に記された場所に向かってみた。大仏の方は、露座だった高岡大仏とは違い、立派な大仏殿の中に鎮座しているようだ。もちろん、そこらへんの路頭から拝むことはできない。大仏参りをするためには拝観料を払う必要があるらしく、「敬虔」という観念からは最も遠い世界に生きていると言う自負がある私は、御参りはパスした。

 そしてもう一方の勝山城。どうやら日本一大きい城らしい。これまで私が見てきた中で最も大きな城は名古屋城であるが、名古屋城のイメージがあまりよろしくないせいか、どうも大きさを誇る城にはある種の警戒感を抱いてしまうらしい。「日本一大きい」という事実を知った瞬間、何とはなしに嫌な予感がした。勝山城に行くべきかパスするべきか、しばし逡巡したが、走っているうちに城が見えてきてしまった。なるほど、でかい城である。周りは水田が中心であるため、なお一層良く目立つ。ここまで来てしまったのである、「えい、ままよ」とばかりに車を城まで進めた。そして、間近で見る勝山城は、確かに巨大だった。あろうことかその石垣には竜が彫り込まれており、眩暈すら覚える威容である。本能的にこの城を回避したくなったのだが、一応どういういわれのある城かを検めるくらいはしておいてしかるべきだろうと考え、気持ちを奮い立たせながら石造りの竜の前まで進む。竜たちの目の前には、勝山城の縁起について記したプレートが設置されていた。それによると……勝山城は建設途中で放棄されてついに完成することのなかった城であり、その実態も良くわかっていないらしい。現在の城は史料その他に基づいて再建されたものではなく、完全な新造のようである。内部は博物館になっているらしい。そのことが分かり、どこか安心する部分があった。結局、城の中には入らずに丸岡城を目指す。

 丸岡には「本物」がある。もっとも、「本物」こそ奥ゆかしいのか、さほど広くもない丸岡町内に入っても、なかなか城の位置がわからず、細い路地をぐるぐる回ると言う失態を演じた。何しろ、城までの道順を示す看板のたぐいが全くと言って良いほど存在しない。それに加えて、手持ちの地図の縮尺が大きく市街地の細い道や目標物の表記は不十分、ナビもないためスムーズな移動が妨げられることになったのである。結局、一度町の反対側まで突き抜けて8号線にまで出てしまった。しかし、怪我の功名と言おうか、8号との交差点に出たことで自車位置の把握が可能になり、仕切りなおしでようやく丸岡城についた。

 日本最古の天守閣は、こじんまりとした城の天守だった。派手な宣伝を打たないこの城のスタイルと同調するかのごとく、随分と純朴な印象を受ける券売所のおじさんから入場券を買い、天守閣の方に向かう。途中、丸岡町が主催している「一筆啓上賞」の優秀作品が掲示されている。今でこそ名の売れたこの賞も、もともとは丸岡城にゆかりの本多作左衛門の手紙から始まったもので、城と無関係ではない。実際、丸岡城の天守閣の直下には一筆啓上の碑もあり、取ってつけたような町おこしでない点には好感が持てる。こう感じたのには、勝山との落差もあろう。

 城の内部に進む。なるほど、かなり古びた感じの城である。姫路城、彦根城なども創建当時のまま天守閣が残っている城だが、それらに比べてもかなりくたびれている印象だ。もともと前述の国宝2城よりも数十年古くに創られた城と言うこともあるが、果たしてそれだけだろうか。特に二階部分に上がると、床板と床板の間に微妙な隙間が開いていて階下の様子を覗けるような有様。丸岡城は一度、地震で半壊した履歴を持つ城だが、修復はできるだけ創建時の部材を使って行われたと言うから、その時のダメージなのかも知れない。建物の規模はかなり小さいし、内部の展示物にしても特筆するほどのものはないが、城の方はなかなかの迫力と言おうか、いぶし銀の魅力がある。

 何にせよ、丸岡城は十分に堪能した。城を出ると、時計は午後2時半を指していた。もう、福井城や一条谷館まで見ていく時間的な余裕はあるまい。二日目の行程は全般に段取りの悪さが目立ち、時間を浪費したためここでタイムアップ。北陸自動車道、名神、東名と乗り継いで名古屋まで2時間の道を走った。かつて頻繁に往来していた時はがらがらに空いていた北陸道に、この時ばかりは多くの車が走っていたのが印象的だった。やはり、ゴールデンウィークだったのだなあ。

 さて、こうして幕を下ろした中部縦貫の旅だったが、何かを忘れているのではないだろうか。記憶力の確かな方ならば、松波駅で買った恋路行きの切符に関してごちゃごちゃ言っていたのを覚えておられるはず。実は書いた本人もこの伏線を完全に失念しており、今、半年振りでこの話にオチをつけようとしている。後日、この切符を知人女性へのお土産にした。まあ、そこまではいいのである。キザったらしいと言えばキザったらしいが、半分ネタみたいなものなのだから。このとき、袋の中からはすっかり忘れていたあの貝殻も一緒にこぼれ落ちてきた。そしてその貝殻が「安産祈願の貝殻」(子安貝だったのか?)であることを未婚女性から指摘され、一人の粗忽な男がしどろもどろになったとさ。