花祭、みんな違って みんないい



中設楽地区花祭の榊鬼


月地区花祭の榊鬼



 花祭とは何か

 「花祭」は、現在、奥三河といわれる地域の、東栄町で10か所(1か所休止中)、豊根村で3か所及び設楽町(下津具)1か所の地区で行われている。ここでの花祭は、釈迦の誕生日に行われる仏教の花祭りとは異なる。

 この花祭は、霜月祭りの一種で、毎年11月から新年の1月にかけて行われている。湯立神楽とも呼ばれ、釜に湯を立て、清浄な湯の力で穢れ(けがれ)を清めるという信仰を中心とする。祭りは、「お清め」により神々を祭場に招き入れ(神招き)、神々と共に歌舞を楽しみ(神遊び、舞)、神返しの神事で終わる。

 花祭の起源は修験道だといわれているが、仏教や陰陽道等が入り混じり、江戸時代には伊勢信仰の影響を受け、伊勢流の湯立神楽の影響を受けているといわれている。

 花祭の目的は、厳しい冬に衰えた生命力の新たな再生の祈願であり、「生まれ清まり」の祭りともいわれる。祭りでは、悪魔退散、五穀豊穣、家内安全、無病息災等が祈願される。奥三河の花祭は、鎌倉時代から700年以上も続く神事芸能だといわれており、昭和51年(1976年)に「国の重要無形民俗文化財」(民俗芸能 神楽)に指定されている。指定名は、「花祭り」ではなく「花祭」となっている。奥三河では、単に「はな」と呼ばれている。

 この花祭が世に知られるようになったのは、昭和5年(1930年)の早川孝太郎著『花祭』によってであり、これによれば、花祭の伝承系統として、奥三河の川筋に沿って「振草系」と「大入系」に分類しているが、
振草系は、大千瀬川(振草川)上流の古戸(ふっと)、下粟代(しもあわしろ)、月、
  中設楽(なかしたら)、足込(あしこめ)、小林  (布川は休止中)
相川(奈根川)の上流にある奈根(なね)村・河内(こうち)と中在家(なかんぜき)
大入系は、豊根村と設楽町(下津具)、東栄町の東薗目(ひがしそのめ)、御園(みその)
小林地区を「大川内系」として別に考える説もある(北設楽花祭保存会刊『中世の神事芸能 花祭りの伝承』)。

天保時代の振草郷(現東栄町)の村々と現在の花祭開催地区

 この花祭は、江戸時代には神仏習合(日本古来の古神道信仰と仏教信仰が融合した信仰)の祭りとして行われてきたが、明治維新の神仏分離令(1868年)により神社の仏教的な要素が排除されることとなり、東栄町内の中設楽村では、真っ先に唯一神道の花祭(神道花)への改変が実行された。
 現在、中設楽、河内地区の花祭は「神道花」として行われ、日本神話に基づく舞が行われている。他の地区でも神道化の影響がみられるが、仏教的な要素も入った花祭として行われている。神道花の祭場の飾りは白一色とされ、登場する鬼は神話に紐付けられているが、他の地区では、五色の飾りが用いられ、昔ながらの鬼として登場するなどの違いが見られる。

中設楽地区花祭の榊鬼

月地区花祭の榊鬼

 舞は、太鼓の音と笛の音で緩急がつけられ、神楽歌「歌ぐら」が歌われ、周りの見物人(「セイト衆」)からは「テーホヘ テホヘ」の囃し声があがる。鬼と一緒に舞う人もいる。舞う舞台を「見る祭り」というより、舞庭(まいど)の中で一緒に舞うことのできる「参加型の祭り」である。ここに大きな特徴がある。

 「歌ぐら」では、修験道の歌や氏子繁盛を願う歌、四季折々の情景をうたう歌などが詠われる。中には、平安時代末期の「梁塵秘抄」の和歌に類似した歌もある。

 神事と舞と歌謡と、以上総じて、花祭は「中世の神事芸能」と言われる所以(ゆえん)であり、これが現代に再現されているところに花祭の民俗芸能としての価値が認められる。

 花祭進行の次第と内容は、どの地区の祭りも大きくは同じように見えるが、神事の内容、舞庭の飾り付け、竈(かまど)の作り方、太鼓の打ち方、笛の音、舞の道具、舞い方(所作)、リズム、背後で詠われる神楽歌等、その細部では、地区ごとに違いがあり、各地区のこだわりと伝統の違いがみてとれる。
 そこに、各地区の花祭を比較して見る面白さがある。花祭は、文章や映像で「わかる祭り」ではなく、山間の冬場に、舞庭の熱気の中に身を置いて「感ずる祭り」である。


 東栄町の花祭