奥三河の花祭とは
奥三河の花祭は、釈迦の誕生日に行われる仏教の花祭りとは異なる。
この「花祭」は、現在、愛知県の奥三河といわれる地域の、東栄町で10か所(1か所休止中)、豊根村で3か所及び設楽町(下津具)1か所の地区で行われている。
この地域は、諏訪湖から流れ下る天竜川水系のうち、三河と遠州、南信州の境目となる近辺になる。その支流奥地の山深い村々で行われてきた祭りである。
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天保時代の振草郷(現東栄町)の村々と現在の花祭開催地区
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花祭の内容
花祭は、霜月祭りの一種で、毎年11月から新年の1月にかけて行われている。
祭りは、湯立神楽とも呼ばれ、釜に湯を立て、清浄な湯の力で穢れ(けがれ)を清めるという信仰を中心とする。
(1)「お清め」により神々を祭場に招き入れ(神招き)、(2)神々と共に歌舞を楽しみ(神遊び、舞)、(3)神返しの神事で終わる。一昼夜通して行われる舞に人気があるが、舞も神事の一環であり、花祭は神事芸能とも呼ばれている。
花祭の目的は、厳しい冬に衰えた生命力の新たな再生の祈願であり、「生まれ清まり」の祭りともいわれる。祭りでは、悪魔退散、神人和合、五穀豊穣、無病息災等が祈願される。
花祭の開催時期と開催場所
地区 | 開催日 | 開催場所 |
小林 | 11月第2日曜日 | 小林諏訪神社境内 |
御園 | 11月第2土〜日曜日 | 御園集会所 |
足込 | 11月第4土〜日曜日 | 足込集会所 |
河内 | 11月最終土曜日〜翌日 | 河内長峯神社境内 |
東薗目 | 11月第3土〜日曜日 | 老人憩いの家 東薗目荘 |
月 | 11月22〜23日 | 月集会所 |
中設楽 | 12月第1日曜日含む土日曜日 | 中設楽生活改善センター |
中在家 | 12月第2日曜日 | 老人憩いの家明寿荘 |
布川 | (休止) | 布川公民館 |
古戸 | 1月2〜3日 | 古戸会館 |
下粟代 | 成人の日前の土曜日〜翌日 | 下粟代生活改善センター |
(注) 日程は変更される場合がありますので、当日近くに確認してください。
→ 東栄町の伝統神事 花祭特集
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花祭の歴史
奥三河の花祭は、鎌倉時代から700年以上も続く神事芸能だといわれている。
花祭の起源は修験道と考えられているが、それが山仕事や農業に従事する住民の祭りとなり、仏教や陰陽道等が入り混じり、江戸時代には伊勢信仰の影響を受け、伊勢流の湯立神楽の影響を受けているといわれている。
昭和51年(1976年)に、初めて「国の重要無形民俗文化財」(民俗芸能 神楽)として三〇件が指定されたが、その中で、花祭は愛知県で一番最初に指定されている。ここで指定された名称は、「花祭り」ではなく「花祭」となっている。地元では、単に「はな」と呼ばれている。
花祭の変革
この花祭は、江戸時代には神仏習合(日本古来の古神道信仰と仏教信仰が融合した信仰)の祭りとして行われてきたが、明治維新の神仏分離令(1868年)により神社の仏教的な要素が排除されることとなり、東栄町内の中設楽村では、真っ先に唯一神道の花祭(神道花)への改変が実行された。→『奥三河の花祭と国学者』
現在、中設楽、河内地区の花祭は「神道花」として、古事記等の日本神話に基づく舞が行われている。その他の地区でも神道化の影響がみられるが、伝統的な仏教的要素の入った花祭として行われている。
伝統的な花祭では祭場は五色の飾りが用いられ、榊鬼、山見鬼、茂吉鬼等が登場して舞うが、神道花では、祭場の飾りは白一色とされ、日本神話に基づき、榊鬼は猿田彦命(みこと)、山見鬼は須佐之男命、茂吉鬼は大国主命となって舞うのが大きな特色となっている。

中設楽地区花祭の榊鬼
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月地区花祭の榊鬼
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花祭の特徴
舞には、宮人(みょうど)の舞、青年の舞、稚児の舞、鬼の舞、禰宜や巫女(みこ)、翁の舞、湯で清める湯ばやしなどがある。
舞は、太鼓の音と笛の音で緩急がつけられ、神楽歌「歌ぐら」が歌われ、周りの見物人(「セイト衆」)からは「テーホヘ テホヘ」の囃し(はやし)声があがる。舞の中に入って一緒に舞う見物人もいる。舞う舞台を「見る祭り」というより、舞庭(まいど)の中で一緒に舞うことのできる「参加型の祭り」である。ここに大きな特徴がある。

中設楽地区花祭 飛び入りの子鬼と花太夫
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「歌ぐら」では、修験道の歌や氏子繁盛を願う歌、四季折々の情景をうたう歌などが詠われる。中には、中世歌謡の「梁塵秘抄」に類似した歌もある。各地区では、次のような40から80首位の歌を持っている。
吉野なる金の鳥居に手をかけて 弥陀の浄土へ入るぞ嬉しき
氏神の北の林に松植えて 松もろともに氏子繁昌
秋過ぎて冬の花とは今日かとよ 風ものどかで八重に咲く花
山鳩のすみかはいずく奥山の 若松小枝に羽をやすめる
神事と舞、太鼓と笛に歌謡、以上総じて、花祭は「中世の神事芸能」と言われる所以(ゆえん)であり、これが現代に再現されているところに花祭の民俗芸能としての価値が認められる。
花祭の種々相
花祭進行の次第と舞の内容は、どの地区の祭りも大きくは同じように見えるが、神事の内容、舞庭の飾り付け、竈(かまど)の作り方、太鼓の打ち方、笛の音、舞の道具、舞い方(所作)、リズム、背後で詠われる神楽歌等、その細部では、地区ごとに違いがあり、各地区のこだわりと伝統の違いがみてとれる。
そこに、各地区の花祭を比較して見る面白さ、楽しみがある。花祭は、文章や映像で「わかる祭り」ではなく、山間の冬場に、舞庭の熱気の中に身を置いて「感ずる祭り」であり、奥が深い。
花祭の危機
この花祭が世に知られるようになったのは、昭和5年(1930年)の早川孝太郎が各地区を巡って観察してまとめた大著『花祭』によってである。
早川孝太郎『花祭 前編』、『花祭 後編』は、国立国会図書館デジタルコレクションから、キーワード「花祭 前編」または「花祭 後編」と入力すれば、その内容を閲覧・検索することができる。
伝統のある花祭で、現代では多くの人の目を引く有名な民俗芸能となっているが、戦後の少子高齢化、山林業の衰退、都市への人口流出、地元商店の激減等により、町の人口は最盛期の四分の一に減少してしまい、今、肝心の舞手不足、裏方不足、資金不足が深刻化している。
町が活性化し、花祭が永続可能になるには、どのような方策、方法があり得るかが、今、舞う側、見る側の大きな課題になっている。
愛知・奥三河の花祭特集
東栄町の伝統神事 花祭特集
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