ジレンマ

 ちりちりとなにかが胸を焼くのを、流石に認めないわけにはいかなかった。

 小十郎が政宗に婚儀の陳情を取り次いでから数日。最初の頃こそ、胸やけの類かと思って食事を消化の良いものに変え、酒の量を控えてはみたものの、一向に治まらないどころか、日増しにひどくなっている。本気で、医者に掛からなくてはならないかと、小十郎は考えていた。

 とはいえ、いまは政宗の執務室で、政の最中だ。小十郎は勘定方と新田に課す年貢の策定を話し合っていた。これが終わるまでは、痛む胸を抱えているしかない。

「Hey、小……成実」

 呼ばれたかと思って顔を向けると、政宗は気付いたように成実に向き直っているところだった。

「この区域の測量が、こっちと合わねえ。測り直しだ」

「了解。…政宗、最近人使い荒くない?」

「別に、普通だろ。このくらいで音を上げてんじゃねえよ」

 けろりとした顔の政宗にあっさりと言われて、成実はげっそりとした溜め息を吐いて、配下に指示を出しに部屋を立った。

 政宗に呼ばれた気がして小十郎が顔を上げると、別の人物を呼んでいたというのは、いまに限ったことではない。あの日からずっと続いている。小十郎は婚儀の陳情以来、政宗とまともに会話をしていなかった。

「……片倉様?」

「…すまねえ。それで、どこまで話した?」

 小十郎がふと会話を途切れさせたことを訝しんだ勘定方に声をかけられた小十郎は、気を取り直して、彼に向き直る。

「米一合あたりの交換率について……」

「そうだった。去年の書付がどこかになかったか?」

「書庫を探してきます」

「頼む」

 勘定方が部屋を出ていくと、あとには小十郎と政宗がぽつんと残された。入れ代わり立ち代わりしていた配下たちは、政宗や小十郎の指示で、みんな出払ってしまっている。

 突然静かになった室内に、そこはかとない居心地の悪さを感じながら、小十郎は政宗に視線を向ける。政宗は広げた測量図を検地報告書と照らし合わせているところだった。

 眼帯をした右目を覆う前髪の向こうに、政宗の顔の左側が見える。物思いに伏せられた左目は切れ長で、長いまつ毛が隙間なく縁取っていた。すっきりとした頬から顎にかけての線は、少女から大人の女性への成長を実感させる。北国育ちのためか、屋外にいることが多いとは思えないほど、肌は白く透き通っていて、うっすらと開いている唇はほんのりと紅色だった。触れたら、きっと柔らかい。

 なにを考えている、自分は。

 我に返った小十郎が慌てて視線を政宗から外すのと、政宗が小十郎の視線に気づいて顔を上げるのとは、ほぼ同時だった。

「なに見てやがる」

 不機嫌そうに、政宗が唸る。はっとした小十郎は、慌てて頭を下げた。

「なんでもありません。ご無礼を」

「Hum? なんでもねえ相手を、てめえは舐め回すように見るのかよ」

 その言葉で、政宗はだいぶ前から小十郎の視線に気づいていたのだと、知れる。どう詫びようかと考える小十郎に、政宗は追い打ちをかけた。

「女としての褒めどころなんかねえくせに、婿取りの機をあっさり蹴りやがってとでも、思ってるか」

「そんなことは…!」

「それともあれか? 顔さえ見なけりゃ勃たねえこともねえとか?」

「そのような仰り様はおやめください」

 女としての価値はないとわかっている。言外にそう告げる政宗の言い様があまりに酷くて、小十郎は反射的にたしなめた。だが、自身を正確に理解している政宗は、それを鼻で笑う。

「Ha! いまさら気取っても意味ねえよ」

「政宗様」

 語気を強めて重ねると、政宗はふん、とそっぽを向いた。久しぶりの会話がこれか、と胸の奥が、今度はきゅうぅと痛む。その痛みに、小十郎は嘆息する。

「……申し訳ございません。少々、失礼いたします」

 冷静にならなくてはと思い、礼をして部屋を辞すると、小十郎は休息用に与えられている自分の部屋へと足を向けた。

 いまのことで、わかってしまった。政宗を「女」として見ている自分を、きっともうこれ以上は殺せない。殺さなくてはならないとわかっていても、もうできない。

 小十郎が初めて政宗に会ったのは、もう10年も前のことだった。病を患って右目を失った幼い姫は、姫として生きることを捨てることで、己の運命を受け入れようとしていた。その健気さに打たれて、小十郎は請われるままに剣術を教え、馬術を教え、戦術を説いた。弟ができたように感じて、その姫が愛しかった。

 姫が政宗と名を改め、武将として成長していく頃になると、今度は、守るもののためにためらいなく命を張る向こう見ずさや、頼ってもいいと判断すれば無条件に小十郎を頼りきるところが、かえって少女らしくて、小十郎は余計に目が離せなくなった。手のかかる妹を、思いつく限りの方法で守ってきた。

 そしていつの間にか、政宗は小十郎の「たった一人の愛しい女」になっていた。

 守るべき姫君であり、仕えるべき主君であるはずだった。否、いまもそうであることは変わらない。今生にただ一人の自分の命よりも大切な存在だ。政宗を女として想っているなどととは、許されざる不忠そのものでしかないとわかっている。それでも。

 いままでは、政宗が誰のものでもなかったから、腹心中の腹心である小十郎がもっとも近くにいる者だったから、小十郎以外の誰も、小十郎以上に近くにいることは許されなかったから、小十郎は自分の気持ちに蓋をしてこられた。

 その蓋の封印を、知らずとはいえ、老臣たちが無遠慮にも解いてしまった。

 政宗がいくら結婚しないと宣言しても、老人たちは引き下がらないだろう。いかな政宗とて、老人たちが本気になったら、抗いきれるものではない。政宗が婿を取らされるのは時間の問題だと、小十郎はわかっている。

 そうなる前に、あのすんなりとした肢体を組み敷いて、あの美貌を快美で啼かせて、自分だけのものにすることができるなら。

 不意に抱いてはならない感情が湧き上がり、小十郎はだん! と畳に拳を衝く。

 政宗は不可侵の主君だ。だが同時に、愛しい女でもあった。相容れない感情が渦巻き、胸を焼くなにかが勢いを増して、じりじりと小十郎の理性が苛まれる。

 ああ、これは、医者に掛かるものではない。小十郎自身が殺そうとしている感情があげる悲鳴だ。

 掌に短く整えた爪が食い込むほど拳を握りしめて、小十郎は殺さなくてはならないそれを殺す痛みを受け入れようと身構えた。


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