偽りの仮面

 政宗が愛姫に「婿を選べ」と命じてから、数日。政宗は知らなかったが、愛姫が小十郎を茶室に呼び出してからも、数日が経っている。

 愛姫とは、あれから何度か一緒の時間を過ごしたが、婿選びに関する話は一切ない。

 愛姫が一体どんな結論を出すのか、正直なところ、政宗は不安で仕方なかった。本音を言えば、いまでも結婚はしたくない。だが、伊達家当主としては、世継ぎを疎かにしてはいけないことはわかっていた。政宗の感情ひとつで断絶させても許されるほど、伊達という家は軽くなかった。正式な評定の場で、あそこまで理詰めで訴えられ、譲歩されては、折れざるを得ない。だから、せめてもの思いで、愛姫に託した。愛姫が選んだ男なら、自分の婿にふさわしいのだと信じることができる。それが誰であっても、愛姫の決定を受け入れると、その覚悟だけを決めた。

 それでも、どうしても、政宗の心から消えない恐れは、たったひとつ。小十郎が選ばれるのでは、という恐怖。

 愛姫が小十郎に政宗の婿になるよう話をしたら、小十郎はきっと承諾する。政宗のために愛姫が選んだのが自分だということを、忠義心から受け入れる。それは嫌だ。小十郎に家臣としての忠義で抱かれるくらいなら、伊達家当主の務めを果たす誇りを胸に、見知らぬ男に身を許す。

 小十郎の恋が手に入らないなら、何もいらない。

 だから、あれほど近くで政宗の本心を理解してきた愛姫なら、婿に小十郎を選ぶはずがない。小十郎だけは、決して選ばないでくれる。

 戦場に立つときでさえ抱いたことのない、この先どうなるのか見えない恐れを、さすがの政宗もこのときばかりは認めざるを得なかった。その恐れを抑え込むために、政宗は暗示をかけるように自分に言い聞かせる。

 大丈夫。愛姫なら、小十郎を選ばない。

 昼下がり、雲が出て薄暗い庭で、政宗はひたすら、愛姫を信じる。

「政宗様。こちらにいらっしゃいましたか」

 ざり、という草履の足音とともに、声が掛けられる。振り返るまでもなく、声の主は知れた。

「小十郎」

「お探ししておりました。少々、お時間を頂戴できますか?」

「OK. なんだ?」

 やけに改まった小十郎の態度に警戒心を禁じ得ず、政宗は問いかける。視線で移動を促され、政宗は小十郎と連れ立って、遮蔽物のない庭の中央に歩き出す。ここなら、周囲に聞き耳を立てる者はいないし、誰かが近づいて来ればすぐにわかる。

「実は、先日、奥方様に呼ばれました」

「それは…?」

「政宗様の婿にならないかと、言われました」

 小十郎の話す内容に衝撃を受けて、政宗は目を見開いた。言葉を発しようにも、声が出ない。

「この小十郎が政宗様の婿になど、恐れ多いと申し上げましたが、奥方様は、政宗様が幸せにならぬことは、一切せぬと……政宗様の幸せを願えばこそ、この小十郎を選ぶのだとおっしゃいました」

 政宗が恐れていたことが、現実になった。それだけはしないでほしいと願っていたのに。愛姫ならしないと信じていたのに。

 だが、政宗は一言も発せなかった。ふざけるなとか、俺が許すから断れとか、政宗が言えば、小十郎を婿にという話はなくなる。そうわかっていても、これだけは嫌だと思っていた事態であっても、それでもやはり。

 小十郎が婿になるという話は嬉しかった。

 どうしたらいいのかわからない。嬉しいのか、辛いのかもわからない。かたかたと手が震え始めて、政宗は小十郎に気づかれないよう、拳を作った。

 小十郎は政宗の様子に気づかず、話し続ける。小十郎は小十郎で、話さねばならないことを話すことに意識が占められていた。

「それからずっと、この小十郎はいかにすべきかと、考え抜きましたが」

 いやだ。結論など聞きたくない。諾も否も、どちらの答えも望んでいない。だが、政宗の手は上がらない。耳をふさごうと動くことができない。

 そして、小十郎はとうとうその一言を口にする。

「奥方様のお話を、お受けすることにしました」

「!!」

 瞬間、政宗の口から、悲鳴のような息が漏れた。

 嬉しい。小十郎が自分の婿になるなんて、そんな夢のようなこと。いや、これは夢だ。わかっている。だって、小十郎が自分の婿になるはずがない。自分の知っている片倉小十郎は、主君を主君以外の存在として見るような、ぬるい男ではない。でももし、本当だったら……。

 政宗の心を、歓喜と困惑がかき乱す。心臓の奥が絞られるように痛い。だが、その痛みは驚くほど甘くて心地いい。

 不意に襲ってきた感覚に溺れそうになった政宗の意識は、しかし、話し続ける小十郎の声で現実に呼び戻される。そして、見逃してはいけないひとつのことに気付いた。

「まだ、奥方様にも正式にお答えしていないのですが……まずは政宗様にご報告と、それから、この小十郎が婿でもよいとお思いになるか、お訊きしようと」

「………………about?」

「政宗様?」

 口を開くと、自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。声を出すことで、意識がすぅっと冷静になる。我に返れば、客観的に状況が把握できた。

「What do you think about? Are you serious?」

「もちろん、本気です。何日も考えて、出した結論です」

 きっぱりと言い切る小十郎を、政宗は正面から見つめ返す。小十郎の目の奥には揺らぎがあった。きっと、小十郎は政宗を愛しているから言っているのではない。ならば、小十郎に無理を強いたくない。

 政宗は一つ深呼吸をして思考をはっきりさせると、背筋をあらためてすっと伸ばし、小十郎に向き合う。

 愛姫が選んだ男なら、と決めていた覚悟は、未だ政宗の心にある。だが、意に染まぬ縁談を無理やり引き受けさせるのは、政宗の流儀に合わない。

「Not joke、小十郎。俺を見縊ってんのか? お前が主君に手を出せるような、半端な男じゃねえことは、よく知ってるつもりだぜ」

「政宗様?」

「愛に言われて、律儀に命令に従ったんだろうが、できもしねえことを引き受けるんじゃねえよ」

「そんなことは…」

「おまえが俺を女と見てねえことくらい、わかってるぜ。そんな様で、俺を孕ますなんて、できるわけがねえ。愛には俺から言っておく。おまえも無理すんな」

「無理などしてはおりませぬ!!」

 政宗の労わる言い方に、小十郎は反射的に言い返していた。政宗が驚いて目を瞬く。

「この小十郎は……この小十郎が政宗様を幸せにできるというのなら」

「それだ。俺のために自分を殺してどうするんだ? 俺を幸せにできるなら、自分はどうでもいいって言うのか? なめてんじゃねえぞ。てめえの幸せのために副将を犠牲にするほど、俺は零落れてねえよ」

「そういう意味ではなく!」

「じゃあ、どういう意味だってんだ?」

 政宗に踏み込まれて、小十郎は数瞬言葉に迷った。

 政宗を女として見ているから、許されるのなら伴侶になりたいと、そう言ってしまっていいのか? それは、男女という区別を超えたところで信頼を寄せてくれている政宗の気持ちを裏切ることになりはしないか? もしそうなれば、政宗はきっと、いままでのように純粋に小十郎を頼ることはしなくなる。政宗の右目でなくなってしまう自分を、自分は許せるのか?

 小十郎を、乗り越えたはずの、政宗に受け入れられない恐怖が、また襲う。

 そして、言葉にしたのは、こんな言い訳だった。

「小十郎にとっての幸せは、政宗様が幸せであることです。この小十郎が婿になることで、政宗様が幸せになるのなら、小十郎は喜んで政宗様の婿になります。小十郎の願いは、ただ、政宗様に幸せになっていただきたいだけなのです」

 あくまで、政宗のためになりたい。政宗が幸せであることが、自身の幸せだと。女としての政宗を求める自身の欲望を押し殺して、小十郎は告げる。

 その瞬間、政宗はくしゃりと表情を歪めた。

 本当は、このとき、どうしてそんな表情をするのか、訊いたらよかった。けれど、自分の欲を隠すために、小十郎は訊くよりも先に言葉を重ねた。

「政宗様の幼いころよりお傍近くお仕えしたこの小十郎の……傅役としての願いです」

「I see、小十郎。……好きにしろ」

 政宗は言い募る小十郎を遮るように、答えた。それはずいぶんと投げやりで、とても小十郎が婿になることを喜んでいるようには聞こえなかった。小十郎がはっとしたときには、政宗はもう、背を向けてその場を後にしていた。

 小十郎は追いかけようかどうしようか迷う。

 だから、政宗の頬を涙が流れ落ちていることに、気付けなかった。


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