「まあ、殿! どうされましたの?」
ふらりと部屋に入ってきた政宗の様子を見た愛姫は、思わず声を上げてしまった。廊下や次の間に控えていた女中たちが、いったい何事かと様子を見にくるが、こんな有様の政宗を人目に曝すことはしていいはずがない。愛姫ははっとして急ぎ人払いを合図する。
女中たちが足早に部屋を離れていく中、愛姫は政宗に近寄ると、そっと腕を引いて床の間の前に座らせた。袷から懐紙を取り、労しげに政宗の頬に当てる。
「塵が入ったのではないようですわね。なにがございましたの?」
「愛……どうして、小十郎を選んだ?」
力なく問いかける政宗の涙を拭い終えた愛姫は、優しい微笑みを浮かべて言った。
「それが最良と確信したからですわ」
「なんで愛はそう言い切れる? 小十郎が絶対に裏切らない家臣だからか?」
「それは……」
訊かれるままに応えようとした愛姫は、しかし、言葉を切ると立ち上がった。
「すこし、長くなりますわ。お茶を煎じてまいります。少々お待ちくださりませ」
政宗をなだめるようににっこりと微笑んで、愛姫は部屋を出る。政宗はその背中を見送ると、開け放たれた障子の向こうに見える庭にぼんやりと目を向けた。
庭師の手が行き届いた庭は、今日も美しい。外出することの少ない愛姫の部屋に面した区画は、殊の外美しく整えられている。風景が美しい分、政宗の悲しい気持ちは増していく。
小十郎が、忠義とか傅役とか関係ないところで政宗を求めてくれたなら、どれだけ幸せだっただろうか。小十郎が政宗を幸せにしたいと願ってくれたのが本心であることは疑っていない。けれど、政宗は、親のような愛ではなく、一人の男としての恋を向けてほしかった。
「……………姫であることを捨てた身で、小十郎に女として愛されたいと思うことが間違いだったのか……」
「政宗様…!」
政宗がつぶやくのと、聞きなれた声が名を呼ぶのとは、ほとんど同時だった。振り向くと、小十郎が脇目も振らずに部屋に入ってくるところだった。
「小十郎?」
驚いた政宗は、近づいてくる小十郎を呆然と見上げる。小十郎は、微妙な立場の愛姫を気遣って、よほどの必要がない限り、愛姫自身にも愛姫の居室にも、自分から近寄ることはなかった。だから、ここにくれば小十郎に追いかけられずに済むと思ったのだけれど。
まさか、ここまで追いかけてくるなんて。
「やはり、泣いておられましたか…! 申し訳ございません!!」
赤くなった瞼を見て、小十郎は政宗の前に膝をつくと、手を伸ばして、労わるように頬に触れる。涙の跡は愛姫が拭ってくれて消えていたけれど、小十郎はそれでも、拭うようにそっと政宗の頬を撫でた。
「小十郎……Why?」
「政宗様が泣いておいでのような気がして、お探ししました。小十郎の思い違いでなければ、その原因はこの小十郎にあるはずと……」
「…っ」
泣いている理由を言い当てられて、政宗は小さく息を飲む。だが、『兄』の心配は必要ない。だから、政宗は無理やり微笑んだ。
「Ha! ずいぶん背負ってるな、小十郎。なんで俺がおまえに泣かされなきゃならねえ?」
「この小十郎が、嘘を吐いて政宗様の婿になろうとしたから、でしょう?」
「!!」
そんな偽りは全くの無駄とばかりに、小十郎はあっさりと政宗の強がりを見破る。とっさに言葉に詰まった政宗に、小十郎は深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、政宗様。この小十郎は嘘を吐きました。政宗様を俺だけのものにしてしまいてえと、浅ましい欲を抱えていることを知られたくないばかりに、己を取り繕い、政宗様のためと言い訳をしました。分不相応な欲望を持っていると政宗様に知られたくない、それだけを考えて……政宗様を、泣かせてしまいました。簡単にお許しいただけることではないと百も承知ですが、それでも、どうか詫びさせてください」
「小十郎……」
思っていたのとは違う嘘の理由に、政宗は困惑する。それを察した小十郎は顔を上げ、まっすぐに政宗を見つめる。
「先ほども申しあげたとおり、小十郎の願いは、政宗様の幸せひとつ。ただ、もし許されるのならば………政宗様を幸せにするのは、この小十郎自身でありたいです」
「それは…」
小十郎の真意は、どこにあるのか。恐る恐る確かめる政宗の眼差しに、小十郎は今度こそはっきりと自分の感情を口にした。
「この小十郎は、一人の男として、政宗様を愛しています。政宗様のすべてを手に入れたい。この、立場をわきまえない感情を、もしもお許しくださるなら………政宗様!?」
突然うつむいた政宗の隻眼から、ぼろりと大粒の涙が零れ落ちて、小十郎は慌てる。政宗の泣いている姿など、見たくない。だが、小十郎が手で涙を何度拭っても、雫はあとからあとから零れてくる。
「政宗様……」
困り果てた小十郎は、落ち着かせるように政宗の肩を抱き寄せ、手近な布はないかと辺りを見回す。その耳に、絞り出すような政宗の声が届いた。
「……嬉しい……」
「政宗様」
「嬉しい、小十郎……」
それきり、政宗は小十郎の着物の袖を握りしめ、胸に顔を埋めて、静かに泣き続ける。小十郎は小刻みに震えるその細い肩を深く抱きしめた。
いっぱい意地張ってごめん。
俺も大好きだ。
ずっとそばにいて。
それから、それから……。
政宗の心に次々と浮かぶ言葉は、涙で口にできない。だから、涙が止まったときには、素直に自分の気持ちを告げたいと思った。
けれど、まずは。
それまでの間、自分を抱きしめる小十郎の強い腕に包まれる心地よさに浸っていたいと思った。