小十郎が政宗の婿になると正式に告知されてから数日。
城の中は、すこし雰囲気が変わっていた。小十郎を婿として迎えたことで、言葉でどこと指摘できない安定感が生まれていた。
それは、決して、政宗が不安定だったという意味ではない。ただ、そんな空気が感じ取れるというだけ。
あの評定の日から、小十郎は愛姫とやたらに親しい。
最初に顔を見られないと言って小十郎を避けたのは政宗だ。何日も、声を聴くだけで恥ずかしさがこみあげて、顔も見ずに逃げていた。
だが、そんな政宗を小十郎は優しく許してくれた。恋という感情に振り回される政宗に、すこしずつ慣れていけばいいのだと言ってくれた。だから政宗は安心して、小十郎が特別な存在になった日常にゆっくりと慣れようとしていた。
その小十郎が政宗を遠ざけ、愛姫と親しくするのは、いったいどういう理由からなのか。
訊きたい。けれどそれで、もしも、いちばん聞きたくない答を聞くことになってしまったら、耐えられない。片想いだった頃ならともかく、小十郎に想われる幸福感を知ってしまった今では。
小十郎が、愛姫に心を寄せることになったら……。どうしようと考えるまでもなく、答えは決まっている。大切な二人に幸せになってもらいたい。でも、そのためには、政宗は心を殺さなくてはならない。それは、できるのか。いや、できなくても、しなくてはいけない。しなくてはいけないとわかっていても、できるとは思えないし、するには心が痛みすぎる……。
曇った表情で政務をこなす政宗の様子に気づいている家臣は少なくなかった。だが、そんな政宗を気遣う言葉をかけられる者など、伊達家中でも片手で足りるほどしかいない。その筆頭格である小十郎と愛姫がなんの対応も取らない今、他の家臣たちにもできることはなかった。
その日の政務を終え、夕食の後に風呂を使った政宗は、なんだか様子が違うことに気づいた。
いつもは、一人でゆっくりと湯に浸かり、背中だけを侍女に頼んでいた。だが、今日は政宗に拒ませる余地もなく、侍女たちが入れ代わり立ち代わり湯殿に入り、政宗を磨き上げていく。
椿油を使って髪を、海泥を使って肌を、隅々まで磨き抜かれた政宗を待ち構えていたのは、梔子の香油を使っての全身整体だ。
面食らい、戸惑いながら侍女たちにされるままだった政宗は、湯殿から上がると白絹の寝間着を着せられ、その上に重たい純白の打掛を重ねられた。とても手の込んだ、鶴や御所車などの柄が一面に織り込まれた白打掛。
そのあまりの重たさに面食らっている間に、侍女たちは手際よく政宗の髪を整える。ざんばらの政宗の髪は結い上げようがなかったが、それでも撫でつけて流れを整えると、潰れた右目を覆うように組み紐と布で作った飾りを差される。
「おい…」
なにを考えているのかと問おうとすると、唇に紅を差され、遮られた。
さすがにもう黙ってはいられないと思ったところで、すらりとふすまが開く。
「あら、お綺麗に仕上がりましたこと」
入ってきた愛姫は、政宗の姿を見ると、満足そうに微笑んだ。一方の政宗は、他でもない愛姫の差し金とわかって、きゅっと眉を吊り上げる。
「愛、いったいどういうことだ?」
「事前にご相談せず、申し訳ございませんでしたわ。お話ししたら、絶対に嫌だとおっしゃると思いましたものですから」
「そう思ったんなら、やるんじゃねえよ」
「生憎と、やらないという選択肢はございませんでしたの」
むっとした表情の政宗に対して、愛姫はにこにこと応える。
「お湯をお使いになった後ですから、お化粧は紅だけにしましたのですけれど、充分お綺麗ですわね。…お休みになる前に、いらしていただきたいところがございますのよ」
なにからなにまで愛姫の思い通りになるのは釈然としないものがあったが、ここまできたら、愛姫がなにを考えてこんなことをしたのか見届けないとすっきりしない。「こちらへ」と先に立って歩く愛姫に、政宗はついていく。
ある部屋の前まで来ると、愛姫は政宗を振り返った。
「そんなに怒らないでくださいましな。せっかくお美しく仕上がりましたのに、台無しになってしまいましてよ」
「Not joke. 右目のねえ醜女捕まえて、美しいもへったくれもねえよ」
拗ねているのでも皮肉でもなく、本心でそう思っていることを知っている愛姫は、困ったように首を傾げた。
「仕方ございませんこと。右目がなかろうと、殿のお美しさに何の障りもございませんのに。…わたくし以外の女子の前で、そのようなこと、おっしゃってはなりませんことよ。みな、殿のお美しさに憧れているのですから」
「だから、そういう冗句を……」
「冗句かどうかは、この部屋で殿をお待ちの方にお伺いになったらよろしいですわ」
幸せそうにふふっと笑った愛姫は、障子を開ける。中には、紋付で正装した小十郎が座っていた。
いったいなにをしたいのかと、ぽかんとする政宗は、促されるままに部屋に入り、小十郎の向かいに座る。愛姫は政宗の打掛の裾を直すと、そっと部屋を出て行った。
「What wants to do you、小十郎?」
どうしたらいいのかわからなくなって口を開くと、小十郎がすっと畳に手をついた。
「政宗様。どうか、この小十郎と……いえ、俺と祝言を挙げてください」
「小十郎。それについては…」
「はい。先日の評定で、お考えは伺いました。公式の大々的なものでなくていいのです」
小十郎の真意を量りかねる政宗は、ゆっくりと瞬きながらわずかに首を傾げる。小十郎はそんな政宗の様子に、包み込むような微笑みをこぼした。
「政宗様が俺の妻になるのだという実感が欲しいのです。俺は傅役でもなく、兄でもなく、夫なのだと……。お許しいただけますか?」
まっすぐに政宗の目を見つめ、そらされることのない小十郎の目。気持ちを伝える言葉だけでなく、事実が欲しいのだと訴えている。政宗が、他でもない小十郎だけのものだという、証しが。
理解した瞬間、政宗の頬が赤く染まる。小十郎の顔が見られなくなってうつむいてしまう。こんな風に小十郎に求められる日を、現実にはあり得ない夢としては、想ったことがあった。けれど、実際に直面してみると、たまらなく恥ずかしくて嬉しい。
「そ…それで、この格好なのか」
「はい。簡単なものでよかったので、打掛だけ用意しました。政宗様の耳に事前に入れば、嫌だと言われてしまうと思いましたので、内緒で愛姫様にご相談させていただいて」
豪華な織模様は、政宗の凛とした美貌によく映えている。純白の出で立ちの政宗は、その美貌も相まって、神々しいほどだ。小十郎は誰はばかることなく政宗に見惚れる。
「愛姫様のお見立てどおりでした。とてもよくお似合いになっている」
小十郎の言葉はなんの飾りもない月並みなものだったが、本心から言っていることはその声音で充分に伝わってきた。愛姫とやたらに親しかったのも、その相談のためで、政宗が心配したようなことはなかった。心のどこかに居座っていた不安が、全身から抜けていく。安心した政宗は、微苦笑してつぶやいた。
「…馬鹿野郎。こんな一晩しか着ねえものに、余計な金使いやがって……」
「花嫁衣装を着た政宗様を見たい一心です。そう責めないでください」
苦笑した小十郎は、そっと手を伸ばすと、政宗の手を取った。
「それで、政宗様。小十郎の願いを、お聞き届けいただけますか?」
「Of course」
照れながらも政宗はうなずく。その頬の赤みはだいぶ落ち着いたが、それでも、まだうっすらと赤い。その初々しさに胸を高鳴らせながら、小十郎は朱塗りの盃を手に取る。
小十郎の持つ盃に政宗が酒を注ぐ。小十郎はそれを三口で乾した。その盃を政宗が受け取り、小十郎はそこに酒を注ぐ。今度は政宗が三口で盃を乾し、再び小十郎へ。三つの盃それぞれで酒を三度酌み交わす。
作法も無視した、だが神妙に交わされた三々九度献。たったこれだけで、夫婦になった実感なんて、本当はよくわからない。小十郎と酒なら、何度も飲んだことがある。だが、盃を交わす前とは、なにかが変わっているようにも感じられた。
小十郎と目が合い、政宗はつい表情を緩める。小十郎はそっと手を伸ばし、政宗を引き寄せる。
そして静かに二人の唇が重なった。