ひたすらに、あなたが好きでいとしくて 01

 その日、政宗の居室には、一人の来客があった。

「どうしても駄目か?」

「無理でございますな」

 翻意を促すような政宗の問いに、客はきっぱりと首を振る。

「伊達様のご要望そのものは、難しいことではございません。ですが、見本となるものがございませんのでは、如何とも致しかねまする」

「…ちっ」

 ここまではっきりと言われてしまっては、政宗もこれ以上食い下がることはできなかった。

「見本がありゃいいんだな?」

「はい。見本さえありましたら、すぐに作ってお納めいたしまする」

 客がしっかりとうなずくのを確認して、政宗は「わかった。下がれ」と声をかける。

 客―――城下で店を営む調香師は、深々と頭を下げて退出した。




 政宗が作らせようとしていたのは、香だった。いつも着物に焚き染めている香を使い切ってしまったので、新しいものを買うつもりだったのだ。

 いつもと違ったのは、小十郎のものも…と思ったことだった。そして、せっかく小十郎の分も用意させるのなら、自分の香と相性を合わせたい、と考えたのは、洒落者で名を馳せる政宗らしいところだ。

 だが、小十郎には小十郎で使っている香があるかもしれない。香りの好みというものは意外と重要で、新しく作るのだとしても、今使っている香の匂いを確認しなくては、自分も仕上がりの保証が出来かねる。と調香師に言われてしまった。

 それが、先ほどの会話である。

 そこで、調香師を帰らせた後の政宗が取った行動は、というと、小十郎の匂いを確認することだった。

 できれば、内緒で用意して、驚かせたい。小十郎は自分からは決して高価な品を使おうとしないから、政宗が贈ることで、すこしはいいものを使うようになってほしいという思いもある。

 なにしろ、奥州筆頭の夫になったいまでも、小十郎は体面を保つのに必要な最低限の金額しか、自分の身の回り品に使わない。もうすこし贅沢したっていいんだぜ。と政宗が言っても、これで充分です。と言って、実用性重視のものを選ぶ。小十郎ほどの偉丈夫なら、どんな高価な羽織でも衣装負けすることなく、さぞ見映えがすることだろうと思うのに。

 話がそれた。

 そんなわけで、政宗は小十郎の私室に着くと、そっと室内の様子を窺った。今日は朝から畑仕事をすると言っていたから、部屋は無人のはずだ。案の定、人の気配がしない室内にそっとすべりこむと、政宗はぐるりと部屋を見回した。

 小十郎らしい、余計なものがない整然とした部屋。勝手に部屋をあさる罪悪感に目を瞑りながら、それらしいところを探してみるが、香は見つからなかった。

 香は使っていないのか? なら、いつも小十郎の陣羽織から匂う香りは、いったいなんなのだろう?

 首を傾げつつ、まだ探していないところは…と視線を巡らせると、綺麗に畳んでおかれている陣羽織が目に留まった。近寄り、手を伸ばして、陣羽織を取り上げる。

 この陣羽織からは、いつも『小十郎の匂い』がする。陽の匂いと、土の匂いと、野菜の匂いと、あとはなにかわからないけれど小十郎からだけ香ってくる匂い。それらが混じりあって、『小十郎の匂い』になって、それを嗅ぐ政宗の心を奥底から癒してくれる。

 だが、顔に近づけた陣羽織から匂った香りは、今日は『小十郎の匂い』ではなかった。

 脂粉の香…!!

 政宗自身は化粧などしたことがないが、愛姫はいつもきちんと化粧をしているから、脂粉の匂いくらい知っている。

 どうして、小十郎の陣羽織から、自分は使わない脂粉の香がする?

 どうして?

 どうして……………

 政宗の手から陣羽織が滑り落ちて、ばさりと音を立てる。衝動的に叫びそうになるのを、無理やり深呼吸して堪えると、政宗は入ってきたときのように音もなく小十郎の部屋を出た。




 畑から戻ってきた小十郎は、政宗の部屋の様子がおかしいことに気付いた。

 城表に姿がなかったので、政宗が居室にいることは間違いないはずなのに、部屋の障子はぴったりと締め切られている。居室で過ごすときには障子を開けておくことを好む政宗らしくない。

 様子を窺おうと足を向けると、控えの間から政宗付きの侍女が出てきた。

「旦那様。恐れ入りますが、殿にお声をかけられることは、ご遠慮くださいませ」

「なんだと?」

「しばらくお独りで過ごされたいとのことでございます。殿がご自分から声をかけるまで、誰も近寄ってはならぬと」

「……それは、俺も、愛姫様も、か?」

 驚いて確かめる小十郎に、侍女は平伏する頭をさらに低くして答えた。

「はい。旦那様も、奥方様も、でございます」

「そうか。わかった。…俺は部屋にいる。政宗様からお声がかかったら、いつでも呼びに来てくれ」

「承知いたしました」

 平静を装ってうなずくと、侍女はほっとしたように一礼した。政宗はそうとうきつく命じたらしい。自分の部屋に戻りながら、小十郎は嫌な感覚が心に溜まっていくのを感じていた。

 もともと政宗は、考え事は独りでする性質だ。おまけに、自信を失っている時などは、その思考が良い方向へ向いていることはまずない。それは幼いころから変わらない性分で、最たる例が、疱瘡で光を失った眼を自分で切り取ろうとしたことだった。あのとき、小十郎が見つけなかったら、どうなっていたことか。考えるだけで、ぞっとする。

 いまでこそ、派手に人目を惹くことを好む気性になったが、独りで考え込む性質が消えてなくなったわけではない。いや、奥州筆頭として、弱い部分を曝してはいけないと己を律するようになった分、小十郎でさえ政宗が弱っていることに気付きにくくなった。

 だが、このところの政宗は機嫌がいいことが続いていたし、なにか落ち込ませるような出来事も小十郎の耳に入ってはいない。いったい、なにがあったというのか。

 眉間にしわを寄せて考えながら自分の部屋の障子を開けた小十郎は、床の上に無造作に打ち捨てられている陣羽織を見つけた。

 そしてその瞬間、すべてを理解した。




 結局、政宗はその日は部屋から出てこなかった。

 小十郎は政宗が部屋から出てくるのをずっと待ったが、部屋の障子はかたりとも動かなかった。

 だから、朝になって政宗が部屋の障子を開けたとき、小十郎は心底ほっとした。

 政宗が出てきたということは、政宗なりの結論を出したのだということを、一瞬忘れて……。




「昨夜は心配しました。もう、お考え事はよろしいのですか」

 政宗の部屋に入った小十郎は、政宗の左側に斜めに向かい合う位置で腰を下ろした。政宗はその様子を眼で追っている間、きゅっと唇を引き結んでいた。

「小十郎」

 小十郎がなにか話したそうな顔をしていることに気付いて、政宗は先手必勝とばかりに口を開く。小十郎は話し出すきっかけを失って面食らった顔をしたが、すぐに気持ちを切り替えて返事をした。

「はい」

「昨日、俺はお前の部屋に入った。無断で入ったことは悪かったと思ってる。すまなかった。……それはそれとして、そのとき、お前の陣羽織から、脂粉の匂いがした」

 やはりそうだったか。推測していた通りの内容に、小十郎は特に驚きもなく、静かにうなずく。政宗が認識している事実に間違いはなかった。そう、事実だけは。

 だが、政宗にとっては、その落ち着いた小十郎の様子は、事実以外のすべても含めての肯定だった。

「じゃあ、間違いじゃねえんだな? お前は……脂粉の香が移るくらい、化粧した女と一緒にいた……そう言うんだな?」

 震えそうになる声を抑えて、政宗は確認の問いを重ねる。小十郎はしまったと思ったが、もう遅かった。

 政宗は視線を落としていくつか瞬きをすると、小十郎に視線を戻した。

「わかった。……別に、咎めるつもりはねえ。ほかの女が抱きてえときは、花宿でも色街でも行くといい」

「政宗様!?」

「俺が色気のねえ女だってことくらい、自分でわかってる。いくらお前の気持ちが俺に向いてたとしても、女らしい女を相手にしてえときもあるだろう。無理すんな」

 まさか、政宗がこんな答えを出すとは思っていなかった。しかも、しっかりと視線をこちらに向けて、無理しているとわかる声とはいえ、はっきりとした口調で。

「いままで気付いてやれなくて、悪かった」

「政宗様。それは誤解です」

 ここできちんと言わなくては、政宗は二度と聞いてはくれない。そう思った小十郎は、政宗が会話を終わらせる前に食い下がった。

「俺は、政宗様以外の女を抱きてえと思ったことはありません。少なくとも、政宗様に惚れていることを自覚してからは、絶対に」

「小十郎。俺は無理しなくていいって言ったぜ」

「承知しています。もちろん、無理してなどいません」

「I do not believe that you say!」

 反射的に叫ぶと、政宗は立ち上がった。

「こういうとき、俺がお前の主君だってことが恨めしくなるぜ。お前は本心で言ってるんだろうが、それが忠義心からのものじゃねえと、どうやって証明する?」

「証明はできません。この小十郎は、政宗様を愛しているから、忠誠をお誓い申し上げているのです。政宗様への愛と忠義を切り離すことはできません」

 言いながら、小十郎は手を伸ばして、政宗の左手を握った。ここで立ち去られたら、きっともう政宗の夫に戻れない。だから、捕まえておかなくては。そんな確信めいた予感があった。

 政宗がどこかに行ってしまわないように捕まえるには、自分が軽々しく動いてはいけない。そう思って、小十郎は座ったまま、政宗を見上げる。

「ですが、脂粉の匂いがついた原因については説明できますし、その説明が真実であることも証明できます。ですから、どうか信じていただきたい。小十郎が政宗様以外の女を欲することはありません」

「小十郎……」

 小十郎のきっぱりとした口調に、政宗の気持ちが揺れる。小十郎から視線が外れ、うつむき加減に顔をそむけた。その揺れを、小十郎は見逃さなかった。

「先ほどの、余所の女を抱いていいというお言葉は、悲しかったです。政宗様は、小十郎が誰を抱いていても、気にはなりませんか」

 寂しそうに口調が緩んだ小十郎の言葉を聞いた政宗の腕が、かすかに震える。ぽつりとなにかつぶやいたが聞き取れず、小十郎は「は?」と聞き返した。

 すると、政宗は勢いよく小十郎を振り向いた。左目には涙が滲んでいる。その眼で、小十郎をぎりっと睨んで叫んだ。

「嫌に決まってるって言ったんだ!! …けど、もしお前が、そうしてえのに俺がいるせいでできねえでいるんなら、俺が許してやらなくちゃ、お前が辛いじゃねえか! お前は自分からああしてえだとかこうしてえだとか、言わねえから。だから……」

「だから、ご自分から仰ったのですか。『花宿に行っていい』などと」

「お前の贔屓の花宿があることくらい、知ってるぞ」

 伊達軍は上下の風通しがいい。足軽たちの噂話は、政宗もよく耳にしていた。その中には、小十郎が町娘のあこがれの的だとか、贔屓の花宿があって基本的にそこ以外行かないだとかいうものもあった。小十郎への気持ちを一人で抱えていた頃の政宗は、小十郎が自分に見せない側面をひとつでも多く知りたくて、こっそりと耳をそばだてていたものだ。

「……馬鹿なことを」

 政宗の精一杯の強がりと思いやりが愛しくて、小十郎は微苦笑とともにつぶやくと、政宗を引き寄せた。「うわっ」と小さく悲鳴を上げて、政宗が倒れ込んでくる。小十郎は政宗を受け止めると、すっぽりと抱き込んだ。

「それで、俺が花宿に行くのを、独りで耐えるつもりだったのですか。どんなにか辛いだろうに」

「……けど。小十郎がそれで辛い思いをしねえで済むなら」

「お気持ちは有難えですが、俺は本当に、政宗様への気持ちを自覚してから、ただの一度も花宿に行ってねえです」

「けど、前は行ってたんだろ?」

「そりゃまあ、健康な男ですからね。女が欲しくなるときもあります。女なら誰でもよかった時期は、花宿で発散してました。でも、もう行ってねえ。本当です」

「なんで…?」

「政宗様を抱くんじゃなきゃ、意味がなくなったので」

 とたんに、政宗の顔が耳まで赤くなる。小十郎はその様子を見つめて愛しんだ。

 こんなに可愛い人を手放すなど、もうできない。

「一昨日、その馴染みの花宿の前を通りかかったとき、破落戸ごろつきが店でもめ事を起こしてやがりまして。仲裁に入って、破落戸どもを……まあ、二度とここと関わり合いたくねえと思うような目に遭わせてやったら、礼をしてえって宿の女将に座敷に引っ張り込まれたんです。馴染みになるくらいには世話になった宿だし、もう行くことはねえとしても、無碍にはできねえんで、酒を少しだけ飲んで帰ってきました。そのとき、妓たちが接待してくれて、匂いがついたんです」

「……そうだったのか」

 小十郎の説明を聞いて、政宗は自分の早合点が恥ずかしくなる。小十郎の話を確かめるように深呼吸すると、陣羽織からは土と太陽の匂いがした。脂粉の匂いを落とすために、昨日帰ってきてから洗濯したのだろう。

「ところで、政宗様はどうして俺の部屋にいらしたんですか?」

 昨日は朝から畑に行くと政宗にも伝えていた。部屋に行っても小十郎がいないことは、政宗もわかっていたはずだ。不思議そうな小十郎の質問はもっともだった。

「香を作らせようと思ったんだよ。俺と小十郎で、対になるやつ。けど、調香師が小十郎が普段使ってる香がわからねえとできねえだのなんのと言うから、お前の使ってる香を調べようと思って……」

「そのくらい、訊いてくだされば」

「内緒で作って、贈ろうと思ったんだよ。お前、自分のものにあまり金掛けねえだろ? 言ったら、いらねえとか言いそうだったから」

 先ほどとは違う理由で、政宗は赤くなる。内緒の贈り物がバレてしまったことが悔しいのだろう。

「そんなことねえです。政宗様が俺にと思って用意してくださるんですから。…でも、香は見つからなかったでしょう?」

「That's right. なんでわかった?」

「持っていませんからね」

「Really? でも、いつもお前からいい匂いがするぜ?」

 驚く政宗の問いに、小十郎はくつくつと笑うと、正解を教える。

「それは、政宗様の移り香ですよ」

「へ…?」

 思いがけない答えを聞いた政宗は、間抜けな声をこぼして絶句した。その政宗に、小十郎はもう一度告げる。

「政宗様が、小十郎の『香』なんです」

 そう言った小十郎は、深呼吸をして腕の中の政宗の匂いを嗅いだ。


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