「月がとても青ひですね」

 午前の来客対応を終えて、執務室に戻る途中、ふらりと政宗の足もとが揺れた。

「政宗様」

 すかさず腕を伸ばして支えてくれた小十郎にすがり、政宗は数瞬、こみ上げてくる吐き気を耐える。

「やはり、医者を呼びましょう」

「いい。ちょっと胸焼けしてるだけだ。……あまり騒ぎにしたくねえ」

 本当は、朝から調子が良くなかった。熱っぽくてだるいので、季節外れの風邪でもひいたのだろう。朝食もろくに喉を通らなかったし、吐き気が治まらないので、昼食は抜いてしまうつもりだ。

 さっさと医師に掛かって風邪薬を飲んでしまえばいいのだろうが、小十郎に心配をかけたくなくて、政宗は頑なに医師に掛からずに済ませようとしていた。

 小十郎のことだけでなく、このところ、統一したはずの奥州がまたすこし不安定になっている。そちらを早々に収めるためにも、いまは休んでいる場合ではない。医師に掛かって、たとえば数日療養しろとか言われてしまえば、その隙を狙って伊達家に反抗しようという豪族が出るかもしれない。それは避けたかった。

「昼は、消化の良いものを用意させましょう」

 政宗の様子を見ていた小十郎が、妥協案を口にする。だが、昼食を抜くつもりの政宗は首を振った。

「………いや……い」

 「いらない」と言いかけて、堪えきれないほどの吐き気がこみ上げ、近くの手水に飛び込む。

「けほっ」

 胃の中のものを吐いていると、追ってきた小十郎が背をさすってくれた。大きな手の感触に安堵して、政宗は吐き気が消えるまで全部吐いてしまう。

 政宗の様子が落ち着いた頃を見計らって、小十郎がすすぎの水を差しだす。政宗は器を受け取ると、口の中をすすいだ。

「やはり、医者を呼びましょう。政宗様は、午後は横になっていてください」

「そういうわけにいくかよ」

 政宗は小十郎の提案を拒んだが、吐くことで体力を消耗したせいで、声に力はない。小十郎はきゅっと表情を険しくした。

「大したことはないとおっしゃるなら、なおのこと、いまから休養を取って、明日には万全にしてください。よろしいですね」

 言いながら、小十郎は政宗の膝裏と背中に腕を回して抱き上げる。

「Hey, 小十郎、なにしやがる! 降ろせ!」

「なりません。今日は急ぎの案件もないことですし、このまま床にお連れします」

「No! Wait!」

「小十郎も枕元に控えますので、どうぞご心配なく」

「Not joke!」

 まるで大切なものを扱うように抱き上げられ、運ばれることが恥ずかしくてたまらない政宗はじたばたとあがいたが、小十郎にしっかりと抱えられてしまっては、どうしようもない。

 仕方なく自室まで運ばれると、状況を察した侍女が延べた床に降ろされた。侍女は小十郎の指示で医師を呼びに退出し、小十郎はまるで見張るように枕元に座する。

「Shit…! 騒ぎにしたくねえって言ったじゃねえか。これじゃ、城中に俺が体調崩してるって広まる……」

 政宗は床の中から恨めしげに小十郎を見上げるが、小十郎は平然と

「明日、きちんと回復なさっていれば、政宗様が臥せっているなどと誰も取り沙汰しません」

 と切り返した。

 そこへ、廊下から声がかかる。

「片倉殿、よろしいかしら」

「愛姫様」

 声の主にすぐ気付いた小十郎は、障子を開けて来訪者を招き入れた。愛姫は部屋に入ると、小十郎と反対側の枕元に寄る。

「殿のご体調がよろしくないと伺いましたので、参りました。お風邪を召されましたかしら?」

「Probably it is so. 朝から熱っぽいし、吐き気が止まらねえ」

 身を起こし、愛姫に体調を打ち明けた政宗の言葉を聞いて、驚いたのは小十郎だ。

「熱があるとは伺っていませんでしたが!?」

「……言ったらおまえが大げさに心配すると思ったから言わなかったんだよ」

 政宗は舌打ちして、ため息交じりに応える。小十郎は政宗の近くににじり寄ると、質問を重ねた。

「熱と吐き気だけですか?」

「ああ。熱があるせいで、だるいようにも感じるが、それだけだ」

 すると、今度は愛姫が首を傾げた。

「殿。それって、本当にお風邪ですかしら?」

「What、愛?」

「子ができた徴がそのように現れると聞いたことがございますわ。お心当たりは……」

 愛姫がすべて言い切る前に、政宗は真っ赤になってうつむき、小十郎は息を飲んで政宗を見つめた。

「充分、おありのようですわね」

 愛姫がため息を吐くのとほぼ同時に、医師の到着が告げられた。




 診断の結果、政宗はやはり懐妊していた。身籠って三月目になるという。

「しばらく、吐き気を覚えることが多いと思われます。ただし、何も召し上がらないのはお腹の子に障りますから、無理をなさらず、召し上がれるもの、食べたいと思われるものを、お召し上がりください」

 医師にそう言われ、政宗が食べたいと言ったのは、小十郎の野菜だった。

「しばらく米の匂いは嗅ぎたくもねえ。小十郎の畑の野菜なら食える気がする」

 政宗の言葉を聞くなり、小十郎が野良着に着替えて畑へ向かったのは、いまさら言うまでもないだろう。

 その後、つわりが治まるまで、政宗の食事は野菜の炊き合わせが中心になった。


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