グッジョブ

「まあぁ! 殿! なんてことですの!!」

 奥御殿に、珍しく愛姫の怒声が響いた。

 まさかと思って来てみれば……と、愛姫は怒り心頭の面持ちだ。らしくもなく廊下に仁王立ちになり、きつく相手を睨みつけている。

 その愛姫に怒鳴られ、睨まれているのは、稽古着に身を包み、木刀を持って出かけようとしている、妊娠四月目を過ぎた政宗だった。

「What’s happening? 愛」

 ぎくりとした表情で、さりげなく木刀を背に隠しながら、政宗は愛姫を振り返った。その様子からすると、後ろめたいことをしている自覚はあるようだ。だが、そうとわかったところで、愛姫は見逃すつもりは毛頭ない。

「いったい、なにをお持ちですの? どこでなにをされるおつもりでしたの? どうぞ愛もご一緒させてくださいまし」

 ご一緒もなにも、最初からさせない気満々だ。政宗はShit!と舌打ちする。だが、愛姫は怯むことなく立ちはだかった。

 愛姫がここまで強硬な姿勢を取るのには、わけがある。

 数日前のこと、ようやくつわりも治まり、そろそろ安定してくる頃だから、軽い運動ならむしろしたほうがいい。と医師に言われて、政宗がしたのは木刀の素振りだった。もちろん、妊婦が素振りなどしていいわけがない。見つけた女中が金切り声で止めに入り、それを聞きつけたほかの女中や小姓が寄って集って政宗に組み付き、這う這うの体で止めたという騒ぎがあった。

 小十郎がそば近くいれば、そんなことも起きなかったのだろう。だが、このところ小十郎は政宗の名代として務めなくてはならない職務が増え、かならずしも政宗に目が届くところにいられるとは限らなかった。その日も、小十郎は近郊の農村の視察に、成実を伴って出かけていたのだ。もちろん、小十郎が帰ってきてから、政宗はこれでもかというほどのお小言を頂戴したのだが。

 斯くして、愛姫は己の身体を張ってでも政宗の無茶を止めるという役目を自分に課し、いままさに実行しているのであった。

「あ…、いや、ちょっと気分転換だ。愛にはあまり向いてねえと……」

「素振りでございますわね? 愛は、木刀を持たないでくださいましと、殿にお願いいたしましたわ」

「There is no help for it. やらねえと、動けなくなる」

「剣術はお腹に負担がかかって、やや子によろしくございませぬゆえ、お産が済むまでお控えくださいませと、申し上げたはずですわ。…それとも、殿はそれでお腹のやや子に万が一のことがあっても、致し方ないとお考えですの?」

「そんなわけはねえ」

「でしたら、どうぞお部屋にお戻りくださいまし。それと、どうぞお召し替えを。そのような衣装をお召しだから、木刀を振りたくなるのですわ」

 この城に、政宗に強く出られるのは小十郎のほかは愛姫しかいない。その小十郎がいないいま、自分が政宗を止めなくては、と愛姫は一歩も譲らない姿勢で詰め寄る。

「OK. OK. 愛。そんなに怒るなよ、わかったから」

 愛姫の迫力に圧されて、仕方なく、政宗は促されるままに自室に戻った。

 自室に戻った政宗は、愛姫に請われるまま、稽古着を脱ぐ。そして……

「Hey, 愛! なんだこれは!?」

 稽古着を脱いだ政宗に着せられたのは、女物の小袖だった。

 着せてしまえばこちらのものと、愛姫は安堵のため息を吐く。そして、にっこり微笑むと、

「なにって、小袖ですわ。そのお衣装でしたら、思うようにお動きになれませんでしょ?」

「ああ、窮屈この上ねえな」

 政宗の不機嫌な返事に、愛姫はあっけらかんとうなずく。

「それはようございましたわ。打掛もご用意してありますけど、どうなさいます?」

「そんな邪魔くさいもの、着ねえよ」

 唸るような政宗の返事に、「あらそうですの。残念ですわ」と愛姫は背後の衣桁を振り返った。衣桁には、牡丹の柄のそれは華やかな打掛がかかっている。

「殿なら、あの打掛を着こなせると思ったのですけれど」

 心底残念そうな愛姫に、政宗はぎろりと視線を向けた。

「愛、俺をはめたな?」

「あら、心外ですわ。ちゃんと、片倉殿の了承はいただいていますもの」

 要は、二人で仕組んだということだ。愛姫と小十郎に組まれては、いくら政宗でも頭が上がらない。

「Shit! 小十郎の奴」

 舌打ちした政宗は、部屋を出ると城表に向かって歩き出す。

「殿、どちらへ?」

「小十郎のところだ」

 いつものように大股に歩く政宗の足もとで、ぱんっぱんっと音がする。着物の裾が大きく蹴立てられて上げる音だ。愛姫は決して立てないその音は、つまり、政宗がどれほど広い歩幅で歩いているか、ということでもある。心配になった愛姫は、自分もついていくことにした。

 城表の座敷に入ると、近習たちが慌てふためいて平伏する。奥御殿で静養しているはずの政宗が、前触れもなしに、奥方を伴って現れたのだ。しかも、女装束で、不機嫌丸出しだ。慌てるなと言うほうが無理な話である。

「小十郎は?」

「かっ、片倉様なら、いまは厩の方に……」

 政宗に言葉少なに問われた近習は、建物の裏にある厩を示した。

「I see.」

 うなずいた政宗は、座敷を出ると、外に降りようと沓脱に向かった。

 そのとき。

 普段の感覚で降りようとする政宗の脚を、着物の裾がくんっとひっぱった。

「うわっ」

「殿!!」

 悲鳴を上げて愛姫が差し伸べる手が間に合うはずもなく、着物の裾に足を取られた政宗が自分で踏みとどまれるはずもなく……

 転ぶ! と誰もが思った時だった。

「政宗様!!」

 叫び声とともに、大きな影が飛び出して、政宗の身体を受け止める。そして、政宗を胸に抱え込むと、背中から着地した勢いのまま地面を滑った。

「片倉殿!」

「片倉様!」

 奇跡のような離れ業をやってのけた男の名を呼びながら、愛姫や女中、近習、足軽たちが駆け寄ってくる。小十郎は政宗をしっかりと抱きかかえたまま、そっと起き上がった。

「政宗様」

 呼びかけると、政宗の目が恐々と開かれる。その瞳を正面から見つめて、小十郎は政宗の返事を待った。

「小十郎……」

「お怪我はありますまいな? お痛みは?」

 悲痛なほど心配している声に尋ねられて、政宗はふるふるっと頭を振る。すると、ぎゅうっと強く抱きしめられた。

「よかった…!!」

「小十郎……。……すまなかった」

 抱き締める小十郎の腕に触れ、政宗が小さくつぶやくと、「お怪我がなければよいのです」と返ってきた。その声は、うっすらと涙が混じっているようにも聞こえた。

 政宗は罪悪感と安堵が入り混じった微笑みを浮かべると、その胸板に頬を寄せた。




 その後しばらく、小十郎は政宗を離そうとしなかったが、いまだかつてこれほど甘やかされたことがあっただろうかと言うくらいに甘やかされた政宗は、慣れない心地よさに戸惑いながらも、満ち足りた笑みを浮かべていた。


Page Top