愛姫が退出した部屋で、二人きり残された政宗と小十郎を、沈黙が包み込んでいた。
自身に価値を見いだせず、自分の婿になる男などいないと思い込んでいる政宗にとって、愛姫の退出は、これ以上質問されたら敵わないという逃げにしか思えなかった。
愛にも捨てられた。政宗の唇が音もなくそう動いたことを、小十郎は見逃さなかった。
「ま…藤姫様」
声をかけると、政宗は顔だけ振り向いてくれた。だが、目線は下に落ちていて、小十郎の顔を見てはいない。
「小十郎も、無理にここにいなくていい。姫は平気だから」
「無理などしておりません。冷めぬうちに、朝餉を召し上がってください。お許しいただけるなら、小十郎もここで相伴させていただきます」
「無理してないなら、なんで姫を呼ぶとき、他の誰かの名前を言いかけるの?」
「…!」
息を飲みながら、小十郎は政宗が幼い頃から聡かったことを、いまさらながらに思い出す。いくら事実だとしても『姫』にいまは男名なのだと告げることは酷いように思えて、小十郎としては気を使っていたつもりだった。けれど、それもまた傷つけていたとは……。
名を改める前の政宗が深い孤独の中にいたこと、それゆえに近しい者の心の機微に敏感であることを、すっかり忘れていた。
深呼吸を一つすると、小十郎は腹を決める。
「小十郎の妻は、『政宗』様といいます」
すると、政宗はきょとんと瞬きしながら小十郎を見た。
「小十郎は姫の婿だって、愛は言ったよ?」
「はい。藤姫様は十の時、元服して名を政宗様と改められました。ですから、小十郎の妻の名は藤姫様であり、政宗様でもあります。記憶をなくされているので、できるだけ『藤姫様』とお呼びするよう心がけておりましたが、そのためにお気持ちを傷つけてしまい、申し訳ありません」
「じゃあ、姫のこと呼ぶときに言いかけてたのは、姫の名前?」
「そうです。小十郎にとっては、『政宗様』とお呼びしている年月の方が長いですから」
「小十郎は、どうして姫の婿になったの?」
「それは」
言いかけて、相手は九つの少女だと気付く。どんな言い方をすれば、子供の毒にならずに、政宗に惚れきっていることを伝えられるだろうか。当たり障りのない表現では足りない。でも、うまく伝えなくては、同情だと誤解される気がする。
「小十郎が説明するより、いい方法があります」
そう言うと、小十郎は政宗に着替えを促した。
いまの政宗は知らないことだが、女性の装束で政宗が外出するのは初めてだった。
変装も兼ねて、政宗を武家女性の装束に着替えさせ、短い髪にかもじをつけて『普通の武家の女性』の姿にすると、小十郎は城下に連れ出した。馬に乗ろうか迷ったが、妊婦を馬に乗せてよいかわからなかったので、安全策を選んで徒歩だ。
城下の民には、政宗が婿を迎えたことや小十郎が妻を得たことは知られているが、それが同じ事だとは知られていない。前髪と包帯で右目を隠した政宗は、『伊達政宗』ではなく、『片倉小十郎の妻』だった。
小十郎に連れられて城下を歩いていると、すれちがう人たちがみんな小十郎に挨拶する。中には、小十郎の背に隠れるようにしている政宗に「その方が奥様ですか?」と目を向ける者もいて、その度に小十郎はうなずいて、気晴らしに連れてきたと説明した。
「おや、片倉様。お久しゅうございます。今日は散策ですか?」
歩いているうちに通りかかった宿の前で、女将らしき女性に声を掛けられ、二人は足を止めた。政宗は小十郎の背に隠れるように寄り添い、女将に目を向ける。そんな政宗に「心配いりません」とうなずいて、小十郎は女将に向き直った。
「女房の体調がいいんでな。気晴らしがてら、散歩だ」
「ああ、あの、愛しくて仕方がない御新造様」
「……ああ」
女将の遠慮ない言葉に、小十郎は照れながらうなずく。政宗は「どういうこと?」と小十郎を見上げた。その政宗に、女将が面白そうに教える。
「片倉様は、以前はうちの宿をそりゃあ贔屓にしてくださってたんですけどね。御新造様をお迎えになった途端、ぱったりお見限りです。通りかかったって、足も止めちゃくれません。機会があってお話ししても、御新造様が可愛らしい、愛しくて仕方ないって、もうそればっかり。だから、片倉様をそこまで惚れさせた御新造様ってのはどんな方だろうって、みんなして噂してたんですよ」
庶民らしい女将のあけすけな物言いに戸惑いながらも、小十郎が自分のことをそんな風に語っていたという話を聞いて、政宗は嬉しさで胸が苦しいと思った。嬉しくても苦しくなるのだと、初めて知った気がした。
「そんなにそればかりだったか?」
「あら、ご自分じゃ気付いてなかったんですか。…けど、こんな器量好しの御新造様じゃ、確かに愛しくって仕方ないでしょうねえ。お迎えになられてすぐにお子ができたようですし。片時も離したくないって、顔に書いてありますよ、片倉様」
「まあ、今生にただ一人と決めた女房だからな」
「おやまあ。ご馳走様と申し上げたらいいですか?」
言葉遊びのように交わされる小十郎と女将の会話。だが、そこに虚飾が一切ないことは容易に察せられた。政宗は気持ちがふんわりと軽く浮き上がっていくように感じる。
自分の素性を知る者がいない城下で、右目のない自分のことを、誰も醜女と言わなかった。むしろ、可愛い、美しいと褒めてくれた。小十郎に挨拶をするついでに声をかけてくれた人たちはみんな、自分のことを『小十郎の愛しい妻』として見てくれている。誰かがそうしろと命じたようにも見えないのに。
あるがままに接する人々の態度の端々から、政宗はこのままでいいのだと、このままの政宗を小十郎は愛しているのだと、伝わってきた。それは周囲の人間の心に敏感すぎるほど敏感な政宗だからこそ、感じ取れたことだった。
小十郎も愛も、うそは一つも言っていなかった。姫は姫のままでよかった。
政宗が意を決して、くい、と小十郎の袖を引くと、小十郎は女将との会話を止めて振り返る。
「小十郎。姫は戻って、愛に謝らなきゃ」
「? どうされました?」
「愛のこと、うそつきっていっぱい言ってしまった。謝らなきゃ。あと……」
「はい」
「姫も小十郎が好き」
「っ!!」
途端に、小十郎が耳まで赤くなる。何か言おうとして言葉にならず、視線をさまよわせて……そして、政宗に視線を戻すと、一言「はい」と言った。
その一部始終を、女将がにやにやと見つめていた。
城に戻り、愛姫の部屋に謝りに行った政宗は、愛姫と喋っているうちに眠ってしまった。
愛姫の侍女に呼ばれて政宗を迎えに行った小十郎は、起こさないように気を配りながら、政宗を抱き上げる。
朝起きてから、知らない人間に囲まれて、いきなり婿だのやや子だのと説明されて、その上に城下にまで連れ出されたのでは、さすがに疲れたのだろう。
寝室に戻り、用意よく延べられていた床に政宗を下ろす。かもじを外し、寝間着に着替えさせてやると、そっと寝かせて、小十郎はしばらく寝顔を見つめた。
訊いても答えはないだろうと思ったから質問しなかったが、どうして政宗がいきなり十年分の記憶を失ったのか、という疑問が小十郎の意識から消えることはなかった。
臨月も近づき、気持ちが不安定になっているのかもしれない…とは、愛姫の考えだ。そうなのかもしれないが、だとしたら、不安がっている政宗を充分に気遣ってやれなかった自分の落ち度ではないかと、小十郎はそれが悔やまれる。
「政宗様……」
指先で前髪を梳き撫でる。答は『政宗』にもわからないかもしれない。だが、記憶を失うほど辛い気持ちに、もう二度とさせたくないから、理由が知りたい。
そうして、小十郎は夜が更けるまで政宗の寝顔を見守っていた。
「Good morning. 小十郎」
障子越しに朝日が差し込む中、聞き慣れた口調に起こされて、小十郎は目を覚ました。
政宗が、見慣れた不敵な顔つきで、小十郎の傍らに座り、見下ろしている。
「政宗様!?」
「Yes. …どうした? 俺、なんか変か?」
跳び起きるなり両手で肩を掴んだ小十郎に面食らい、政宗が顔をしかめる。
戻った。ほっとした表情を浮かべる小十郎に、政宗は怪訝な顔をする。
「小十郎? どうした?」
「いえ…、なんでもありません」
肩から手を放し、安心させるように微笑みかけると、政宗はまだ不審そうにしながら、「ならいいんだけどよ」とうなずいた。
「そうだ。寝てる間に、面白い夢を見たぜ」
「夢?」
「That's right. 小十郎と城下に出かけて、嫁扱いされる夢」
本当はそれは夢ではないけれど、そのときは『政宗』ではなく『藤姫』だったから、夢ではないと言ったところで意味はないだろう。だから、小十郎は興味を持った風にうなずく。
「それで、俺が小十郎にすっげえ愛されてるって、会う奴みんなに言われるんだ。言われなくても、わかってるってのにな」
面倒くさそうな口ぶりをしながら、しかし、政宗はくすぐったそうな嬉しそうな顔をしている。小十郎もぷすりと小さく吹き出した。
「けど、なんかすげえ安心した。俺が感じてるだけじゃなくて、誰から見てもそうなんだって思ったら。…ああいうの、悪くねえな」
「そうでしたか」
それはよかったとうなずいた小十郎は、しかし、次にはきゅっと表情を引き締める。
「しかし、身重でいらっしゃるうちは、不用意な外出はなりませんぞ。せめて小十郎をお連れください。よろしいですな?」
「I understand it. You are right and are good.」
小十郎の予想に反して、政宗はあっさりと了承した。
「二人っきりで出かけるのも、逢引きみてえでいいじゃねえか」
「やれやれ……。政宗様にはかないませんな」
やがて侍女が朝餉の支度ができたことを告げに来て、二人は慌ただしく身支度をする。
この会話はこれきりになってしまい、この日以来、話題になることもなかった。そして小十郎は結局、政宗が一日だけ記憶を退行させた理由を知ることはできなかった。
ただ、なんとなく、考えている仮説がある。政宗は愛されている実感が欲しかったのではないか、ということだ。いくら自分の手元では育てないと言っても、子を産む日が近づいていて、なにも思わないわけがない。不安になることが増える日々の中で、無条件に愛されている実感が欲しかったということは、充分にあり得ると思った。なにしろ、政宗には、母に愛された思い出や、不特定多数に無条件で愛された記憶がない。
その人生の中で、間違いなく輝宗や喜多や愛姫、誰より小十郎に愛されているのだと、もうすこし自信を持ってくれたらいいだけだと思うが、そのためにはまず政宗に愛されている実感をもうすこし持ってもらう必要があるだろう。
だから、もうちょっとだけ甘やかそうかと思うが、どうか。
小十郎がそう愛姫に相談したら、「これ以上甘やかしたら殿が砂糖漬けになってしまいますわ」と、それはそれは高らかに笑われたのだった。