まだコートが必要な、3月の初めのことだった。
片倉小十郎は仕事を終えて、風が冷たい夜道を歩いていた。
いつものように帰宅時間は夜10時を回っている。夕食はまだだが、これから食べるには時間が遅すぎる。さっさと風呂に入って、軽く酒を飲んで、空腹を忘れているうちに寝てしまおうなどと考えながら、オートロックの玄関を入った時だった。
「ずいぶん遅い帰りだな、小十郎」
懐かしい口調に話しかけられて、小十郎は声の方をばっと振り返る。そこはマンションの住人が自由に使っていいラウンジで、そのソファに高校生くらいの女の子が座っていた。
「……政宗様?」
政宗とは小十郎が就職して東京に配属されてからずっと会っていない。単純計算で6年経っていることになる。だが、前世の記憶の中でもとりわけ鮮明な姿と寸分違わない表情で微笑んでいるその人を、見間違うはずがなかった。
「一目でわかるとは、さすが俺の右目だ」
にやりと笑った政宗は、ソファから立ち上がると、小十郎の目の前まで歩いてきた。ハイヒールのブーツを履いていても小十郎よりまだ少し低いとはいえ、小十郎がそもそも一般男性の身長よりも背が高い。覚えている6年前よりずいぶん背が伸びた。ナチュラルメイクの顔は、ずっと大人びて、美しくなっていた。
政宗の成長を感じて熱くなった気持ちを隠すように、小十郎は口を開いた。
「いったい、どうされたのですか? ご連絡くだされば、お迎えに参りましたものを」
「驚かせようと思ってよ。だいたい、おまえ、ご連絡とか言って、電話番号俺に教えてねえだろ」
個人情報保護の厳しいこのご時世、尋ねて教えてくれる当てもなく、手掛かりは毎年小十郎から輝宗に届く年賀状しかなかった。
「それはご無礼を……」
「まあ、別にそれはいいけどな。迷いもしねえでたどり着けたし」
運よく中にも入れたし、と謝る小十郎を遮り、政宗は座っていた位置まで戻ると「よっ」と掛け声をかけ、大きなトランクを転がしてきた。まるで海外旅行にでも行くかのようなトランクに、小十郎はまた驚いた。
「ま、政宗様。そのお荷物は……?」
「これか? これは当面の着替えだ。あとはこれから届く」
けろりと応える政宗の言葉を聞きながら、小十郎は促されるままにエレベータールームに向かって歩き出す。政宗はトランクを転がしながらその後をついてきた。
カードキーを通してエレベータールームに入ると、小十郎はエレベーターを呼んで24階を押した。タワーマンションのエレベーターはさすがに静かで、耳が痛くなることもない。
24階のエレベータールームのドアを出ると、小十郎は吹き抜けの回廊の奥、南側の部屋に向かって歩き出した。
「ずいぶんいいところに住んでるんだな」
「このくらいしか金を使うところがないだけです」
「そうなのか?」
「そうなんです。一日の大半を会社で仕事をして過ごしていますから、居心地がいい寝るところと、体裁が整う程度に見映えがいいスーツさえあれば、ほかにこだわるものもありません」
言いながらドアの鍵を開けると、小十郎は部屋に上がるように政宗を促した。
広々とした室内は、間取りこそ2LDKだが、ひとつひとつにゆったりと空間が取ってあり、長身の小十郎でも窮屈に感じない造りだった。そのリビングに政宗を通した小十郎は、「少々お待ちを」と言い置いて書斎に入った。
カバンを置き、上着を脱ぎ、ネクタイを無造作に緩めて、小十郎は深い溜息を吐く。この時間で政宗をホテルに泊まれと放り出すなどできるわけがない。今日の今日でマンション内のゲストルームを借りられるとも思えないし、コンシェルジュももう帰宅している。何の支度もしていないが、ここに泊めるよりほかにない。
まいったな。あんなに育つもんなのか。
夜の闇で鏡になった窓に目を向け、また深い溜息を吐く。
前世の政宗を知っているのだから、政宗が美しく育つこともわかっていた。だが、実際に会ってみると、前世の予備知識などなんの役にも立たなかった。たった一人、手に入れたいと望んだ存在が年頃に成長して目の前に立っているのは、予想以上に神経の毒だった。
政宗様はまだ未成年だ。
自分の年齢から政宗の年齢を計算して、小十郎は自戒する。気持ちを落ち着ける作業のようにネクタイを外して襟元を寛げると、小十郎は気を取り直して部屋を出た。
リビングでは、政宗がソファに座っていた。小十郎がゆったりと座れる大きさのそこにいると、細身とはいえ長身の政宗が急にこぢんまりとして見えた。
「お待たせしました。コーヒーでも淹れましょう」
「サンキュ」
小十郎の姿を見てほっとするところは、やはり少女だ。庇護欲が掻き立てられて、また小十郎の心拍数が上昇する。
キッチンでコーヒーの支度をしながら、小十郎は気になっていたことを訊ねた。
「それにしても、政宗様。突然東京にいらっしゃるとは、いったいどうなさったのですか?」
「大学が決まったから、それでな」
「そうでしたか。それはおめでとうございます。どちらの大学に通われるのですか?」
小十郎の問いに返ってきた学校名は、上から数えた方が早いランクの都内の私立大学だった。
都内のキャンパスに通うためには、交通アクセスのよいところに独り暮らししなくてはならない。この時期に東京に来たということは、住居選定と入学手続きのためか。そう予測をつけながら、小十郎は用意したコーヒーを政宗の前に運んだ。
「インスタントですみません」
「かまわねえ。疲れてるのに気を遣わせて悪いな」
政宗の左斜め前に腰を下ろした小十郎は、コーヒーを飲みながら、人心地ついた顔の政宗をそっと見る。
今生ではきちんと女の子として育ったせいか、前世の記憶よりも美しいように感じる。ナチュラルメイクがそう思わせているだけかもしれないが、だとしても、小十郎にとって魅惑的であることに変わりはない。
「いつまでこちらにいらっしゃる予定ですか?」
そう訊いたのは、どのくらい政宗と一緒に居られるのかと思ったからか、どのくらい政宗の魅惑に耐えなければならないのかと思ったからか。どちらにしても、長くても春休みいっぱいくらいだろうと小十郎は予想していた。この葛藤を抱えて過ごすには、春休みいっぱいは長すぎるけれども。
そんな小十郎の内心の懊悩も知らずに、政宗はけろりと答えた。
「いつまで、って言うか、このままここに世話になるつもりで来たぜ」
「なんですと!?」
寝耳に水の答えに、小十郎はつい声を大きくして訊き返した。コーヒーを吹くのだけは気力で堪えたが。
「父さんに東京の大学に行きたいって言ったら、独り暮らしは駄目だって言うから、じゃあ小十郎んとこで世話になるって言って出てきた」
「てっ、輝宗様はなんと?」
「信頼できる保護者と一緒ならいいって」
「保護者ですか」
「父さんはそう言ってたぜ」
完全に無害認定されている発言に、小十郎は打ちひしがれる。それを政宗は別の意味と解釈して、
「もし小十郎の都合が悪いなら、1年だけ、口裏合わせてくれよ。成実を東京に呼んで、一緒に住むから」
「成実ですと!?」
「ああ。いま仙台の高校に通ってて、来年卒業するからよ。卒業したら東京呼んで、同居すれば父さんもなにも言わねえだろ」
「なりません」
政宗が言い終わるかどうかのうちに、小十郎はきっぱりと首を振った。打ちひしがれている場合ではないことを政宗は悪気なく提案している。なんとしても止めなくては。
「輝宗様は『信頼できる保護者の下で』と条件を付けられたのでしょう? 成実は従者にこそなれ、保護者にはなりえません。だいたい、成実を呼ぶまで1年も輝宗様を欺くなど、許されません」
「けど」
「それに」
反論しようとする政宗に先を続ける余地を与えずに、小十郎は微笑んだ。
「そもそも、小十郎は都合が悪いなどとは一言も申しておりません」
一瞬きょとんとした政宗は、目を瞬いた。
「でも、おまえ、なんかショック受けてただろ……?」
「ええ、まあ」
まさにそのとおりなので、そこは否定できないが。
「政宗様が小十郎の家に住まわれるとは、予想も心構えも、しておりませんでしたからな。少々驚いたのは確かです。……でも、決して嫌だからではございません」
「本当に?」
「もちろん」
深くうなずくと、政宗は安心したように表情を緩めた。
「よかった……」
前世の記憶を持ち、同じ気性でいても、政宗なりに、なにもかもすべてが前世と同じにはならないという予測と不安を持っていたのだろう。心の底から安堵したつぶやきは、とても無垢なものだった。
安心した政宗につられるように自分も微笑んだ小十郎は、空になったコーヒーのマグを置くと、立ち上がった。
「小十郎?」
「風呂の支度と、輝宗様に連絡をしてまいります。政宗様は、隣の部屋でトランクを開けていらっしゃるとよろしいでしょう」
「隣の部屋って、俺が使っていい部屋なのか?」
「はい。小十郎の寝室です。小十郎のベッドで恐縮ですが、お使いください。そのうち部屋を片付けますので、それまでは小十郎の物がありますが、ご辛抱いただけますか」
「おまえはどうするんだ?」
「もう一つの部屋を書斎にしていますので、そちらで休みます。どうぞお気遣いなく」
安心させるように微笑んだが、政宗は険しい表情で小十郎を見上げた。
「おまえ、書斎にベッドがあるのか?」
「は…?」
「独り暮らしの書斎に、ベッドがあるわけねえよな。床で寝るのか」
「あ、いえ……このソファを運んで、そこで寝ます。ですので、お気遣いは……」
「ふざけんな。家主追い出しててめえだけベッドで寝るなんてできるかよ。一緒に寝ればいいだろ」
「えっ!? い、いやそれは……」
思わずどもった小十郎を、誰が責められるだろうか。
だが政宗はお構いなしに小十郎に詰め寄った。
「詰めて寝れば、二人くらい眠れるだろ。明日も仕事のおまえをソファに寝かせるなんて、独眼竜の名が泣くぜ。いいから、おまえもベッドで寝ろ」
「ですが、政宗様は嫁入り前……」
「どうせ嫁に行く先はおまえだろうが。変な遠慮してんじゃねえよ」
「しかし……」
政宗がいいと言ったからと言って、はいそうですかとうなずけるわけがない。平行線の押し問答は日付が変わるまで続いた。
そして、結局折れた小十郎は、熟睡する政宗と同じベッドで、一睡もできないまま朝を迎えたのだった。