笑って、さよならを告げる

「なあ、小十郎」

 夜、ベッドに入った政宗に声を掛けられて、小十郎は政宗を振り返った。

 小十郎はだいたいいつも、就寝前、ベッドの中で本を読むのが日課だった。先にベッドに入り、近頃話題のビジネス書を読んでいるところに、政宗がもぐりこんできたのだ。

 ワイドキングサイズのベッドに身を沈めた政宗は、枕を抱いて眠りに入ろうとしている。だが、声はしっかりとしていて、小十郎に耳にはっきり届いた。

「こんどの14日、一日空けとけ」

 政宗がこんな風に小十郎のスケジュールを命令することはめったにない。そして、そういうときはたいてい、なにかしら理由があるものだったが、今回は心当たりがまったくなかった。

「政宗様?」

 面食らって問い返す小十郎の耳に聞こえるのは、すぅっと眠りに落ちた政宗の寝息だった。




 10月14日、当日。

 政宗に言われたとおり、予定を入れずにいた小十郎は、朝食のテーブルで政宗に尋ねた。

「政宗様、今日は何のご予定があるのですか?」

「予定?」

「このあいだ、おっしゃっていたでしょう? 14日は空けておくようにと。なにか、小十郎をお連れになりたいご予定があってのことではないのですか?」

「……ああ、あれか」

 小十郎の意図するところが分かった政宗は、ふわりと微笑むと、カフェオレを一口飲んだ。

「別に、特に予定があるわけじゃねえ」

「え?」

「ていうか……出かけねえ予定にしたかったんだ。おまえ、今日はどこにも行くな」

 それ自体は、たいしたことではない。散歩も、買い物も、今日はしないで家にいる。ただそれだけのことで、難しいことではまったくない。

 それをわざわざ、日にちを指定することには違和感を覚えたが、それでなにかがどうかなるでもない。

「承知しました」

 小十郎も微笑むと、ベーコンをトーストに乗せて噛みついた。

 政宗が用意した朝食は、いつも通り美味しい。ふわふわのオムレツも、シャキシャキのサラダも、カリカリの分厚いベーコンも、バターが染み込んだトーストも、ネルドリップのコーヒーも、イチゴのジャムを乗せたヨーグルトも、政宗が小十郎のために用意した、いつもと変わらない幸せな朝食だ。

 ただ、どうしてだろうか。今日の政宗は、どことなく、泣くのを我慢しているような、悲しい雰囲気を纏っていた。

 朝食を済ませると、二人で並んで後片付けをする。政宗が洗った食器を、小十郎が拭いて仕舞う。使う皿の数などたかが知れているから、片付けはすぐに終わった。

「紅茶淹れたら持っていく」

「ありがとうございます」

 紅茶の缶を取りながら言う政宗にうなずいて、小十郎はキッチンを出ると、リビングのソファに腰を下ろした。

 後片付けの時の様子からは、政宗は普段通りのように見える。表情も普通だし、作業する手もてきぱきと動いていた。食事の時に感じた雰囲気は、気のせいだったのだろうか。そう思いながら、新聞を読み始める。

 やがて、キッチンから甘いミルクの匂いが漂ってくる。ロイヤルミルクティを作っているな……と小十郎が思うのとほぼ同時に、ミルクの匂いに紅茶の香りが混ざった。

「お待たせ」

 大きなミルクティボウルにたっぷりと注がれたロイヤルミルクティが、ローテーブルに置かれる。小十郎は新聞を置くと、「ありがとうございます」と言ってミルクティボウルを手に取った。

 ロイヤルミルクティが入っているボウルは、持ち続けるには少し熱い。息を吹きかけて冷ましながら一口飲むと、限界になる前にローテーブルにボウルを戻す。

 そして続きを読もうと、再び新聞を手にした時だった。するりと小十郎の身体に政宗の腕が絡みつき、きゅっと抱きつく。

「政宗様?」

 問いかけても、政宗は答えない。ただ、お気に入りのくまさんを抱きしめる子供のように、小十郎に抱きついているだけだ。

 そこには甘い雰囲気も艶めいたなにかもなく、ひたすら純粋な執着と無垢な信頼があるだけだった。

 驚いた小十郎は、数瞬どうしようかと考えたが、政宗はただこうしていたいだけなのだと察して、予定通り新聞を広げた。

 そしてその日一日、政宗は小十郎にぺたりと寄り添って、離れなかった。

 そうして、10月14日は家から一歩も出ずに過ぎて行った。




 10月16日の夜になって、小十郎はふと政宗がやけに明るいことに気付いた。

 政宗はどちらかというと、暗い部類に入る。打ち解けた仲間といるときはよく笑うし、よくしゃべるが、初対面での第一印象は決して明朗闊達ではない。小十郎と二人でいる時も、くつろいだ穏やかな顔つきをしているものの、朗らかとは決して言えない。

 だが、今日の政宗は笑みを絶やさず、珍しく早く帰宅した小十郎の前に、嬉しそうにできたばかりの夕飯を並べていた。

 支度が整い、政宗がテーブルに着いて、二人で「いただきます」と手を合わせる。

 ぱっちりと炊けた米を口に運んだ小十郎は、米の甘みを幸せに思いながら、向かいに座る政宗に目を向けた。

「今日は、なにかよいことがあったのですか?」

「ん?」

 ちょうど秋刀魚を口に入れたところだった政宗は、それをゆっくり咀嚼して飲みこむと、小十郎に訊ね返す。

「いや、別にいつもと変わらねえ。……どうしてだ?」

「いえ…、いつになく楽しそうでいらっしゃったので」

 政宗からすれば唐突な質問を、誤魔化すように小十郎はニュアンスを少し変えて答えた。それを言葉通りに受け取った政宗は、ははっと笑い、

「もう旬も終わりかけだってのに、いい秋刀魚があったからな。おまえの帰りも早くて、焼きたてを一緒に食えるし。やっぱり、おまえと一緒に飯食えるのがいちばん嬉しい」

 機嫌のよい猫のように、政宗は幸せ満面の笑みを浮かべる。その様子を見る限り、この答えは取り繕ったものではない。小十郎は、自分が感じていた違和感は気のせいだったのかと、困惑する。

 いや。あの違和感に間違いはない。政宗の悲しみは、あの日、確かに存在した。ほかの相手ならばともかく、事政宗に関して、小十郎の感受性は誰よりも何よりも鋭敏だ。それなのに、いまの政宗にはその気配が微塵もない。

 本音では、問い詰めて、原因となるすべてを取り払ってしまいたい。たとえ羽一片ひとひらであろうと、政宗にかすり傷ひとつでも負わせるものなら、許しはしない。けれど、いまそれを追及することが正しいとは小十郎には思えなかった。笑っている政宗の表情を曇らせるなど、できるはずがない。

 詳しいことがわからなくても、政宗の悲しみも、政宗の喜びも、どんな小さなことでも自分が余さず気付いて、政宗ごと受け止めることはできる。

 迷いを振り払うようにそう決めて、小十郎はきのこの味噌汁に箸をつけた。


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