それは4月も半分を過ぎた頃だった。
大学は、新入生オリエンテーションも履修ガイダンスも済み、講義が始まり出している時期だ。高校までとはまったく雰囲気が違う授業に、政宗は毎日楽しそうに帰ってくる。小十郎は夕食を一緒に摂りながらそんな政宗を見るのが楽しみだった。
しかし、その日はいつもと様子が違った。
「ただいま帰りました」
小十郎が玄関に入るなり、奥からばたばたと出てきた政宗は、飛びつくように小十郎の腕を取って、
「小十郎、今日すごいことがあったんだぜ!」
あんまり弾んだ声で「おかえり」と言うことも忘れて話しかける政宗が、子供のように無邪気で、小十郎はついくすりと笑う。そして、自分の腕にかかっている政宗の手をなだめるようにぽんぽんと叩いた。
「すごいことですか。ゆっくり聞きたいので、まず靴を脱がせてください」
「あ、そうだな。悪い。食事しながら話すから、着替えてこいよ」
ぱっと手を離した政宗は、軽い足取りで奥に戻って行く。小十郎はその足音を聞きながら靴を脱ぐと、自室に入った。カバンを置き、スーツを脱いでハンガーにかけると、ラフな私服に着替える。
ダイニングテーブルでは、政宗が今日の夕食を並べて待っていた。小十郎の顔を見ると、ご飯とみそ汁を装って前におく。
「食べようぜ」
「はい。いただきます」
席に着いた小十郎はいそいそと箸を取り、料理に手を伸ばした。
前世と同じように政宗は料理が好きだ。外食しない日は実にまめに食事を作る。決して手の込んだものばかりではないが、レトルトや冷凍食品、合わせ調味料(いわゆる『もやしと一緒に炒めるだけ!』というものだ)を使うことはない。そして、どれも美味しい。シンプルな料理も素材の味が引き立てられていて、計算された美味なのだとわかる。
そんな政宗の料理を恋人として食べられる幸せは、現世ならではのものだった。前世で政宗の料理を食べるときは、どちらかと言うと、家臣として、傅役としてのことが多かった。まったく対等な関係で、なんの制約もなく、自分のために作られた政宗の料理を食べられるのは、とても新鮮な幸福だった。
美味しそうに食べる小十郎を、テーブルの向かい側から見ながら、政宗も料理を口に運ぶ。決して失敗しているわけではないけれど、自分が作った料理がどの程度美味しいのかは、実はよくわからない。ただ、小十郎がいつもあんまり美味しそうに食べるから、すくなくとも小十郎の口には合っているのだろう。それなら充分だと政宗は思っている。
ふたりそろって黙々と食事をして、会話が始まったのは半分以上食べてからのことだった。
「今日も美味いです、政宗様」
「そうか、ならよかった。なにか食いたいのがあったら遠慮なく言えよ。たいていのものは作れるぜ」
「はい、そのようなときは遠慮なく。……と言っても、今日の夕飯が何か想像しながら帰ってくることは小十郎にはかなりの楽しみですので、あまりリクエストしたいと思うこともなさそうですが」
「なにも手掛かりないところから献立考えるのも、毎日となると存外骨が折れるんだぜ。たまには俺を助けると思って、リクエストもしろ」
「承知しました」
会話しながらも、大根の煮つけがなくなり、鶏肉の柚子胡椒焼きがなくなる。茶碗が空になり、きれいに料理が平らげられたところで、食後の緑茶が出された。
「それで、今日はなにがあったのですか?」
「ああ」
小十郎に水を向けられて、政宗は食事の間すっかり忘れていた今日の出来事を思い出した。
「今日、大学で真田幸村と前田慶次に会ったんだ!」
「真田と前田!?」
「そう! しかもあいつら、全部覚えてた!」
「なんと……!」
思いがけない話に、小十郎も驚いて言葉を失う。輝宗も成実も、前世そのままの姿と名前で、関係まで同じだったのに記憶はなかった。東京でも、それらしい人物に出会うこともなく、前世の記憶を持って生まれてきたのは自分と政宗だけだと思っていた。
なのに。
「今日、他の学部の学生も一緒の一般教養の講義で、偶然出くわしたんだ。向こうは二人でつるんでて、やっぱり大学入って出会ったって言ってた。なあ、これってすごくないか!? 俺とお前だけじゃなかったんだぜ!」
目をキラキラさせて勢いよく話す政宗を見ながら、驚きから立ち直った小十郎は心のどこかがすぅっと暗くなるのを感じていた。
真田幸村も、前田慶次も、前世では因縁浅からぬ関係だった。直接顔を合わせたことは生涯で何度かあったという程度だが、その回数の少なさにも関わらず、政宗は彼らをひどく気に入っていた。特に真田など、自分の感情を熱く駆り立てる唯一の存在として、他は目に入らなくなるほどの気に入りようだった。
その二人に大学で出会ったということは、これから毎日彼らと顔を合わせるということだ。歳もほぼ同じ、互いに前世の記憶があり、前世では強く惹かれ合いながらも一緒に過ごすことはなかった、そんな相手と毎日顔を合わせたら、いったいどうなるのだろう。
政宗を愛していることも、政宗に恋焦がれていることも、世界中の誰にも負けないと自負している。けれど、それでも政宗の心が小十郎から離れないと、いったい誰が保証してくれるのだろうか。
政宗を疑うつもりはない。政宗が小十郎に恋していることはわかっている。ただ、不安なのだ。政宗の心が変わってしまうのではないかという不安が、恐ろしいほどに小十郎の心にあふれてくるのだ。
「……小十郎?」
嬉しそうに幸村と慶次との出会いを話していた政宗が、小十郎の変化に気付いて話を止める。楽しそうに話を聞いてやれない自分に腹を立てながら、小十郎は湧き上がる衝動を抑えることができなかった。
「……っ!」
がたん!と乱暴に立ち上がり、面食らう政宗を有無を言わせずに抱き上げる。そして、大股に自室へ向かうと、政宗をどさっとベッドに降ろした。
「小十郎っ!?」
いきなり豹変した小十郎に驚いた政宗が名前を呼んでも、頭に血が上った小十郎の耳には届かない。荒い手つきで政宗の服を剥ぎながら、飢えたようにその喉に顔を埋める。
自分以外の誰かに目の前で攫われるくらいなら、いっそこの手で壊してしまおう。
感情に突き動かされるままに、小十郎は目の前の白い肌に襲い掛かった。
まだ薄い朝の光が差し込むベッドで、小十郎は深い自己嫌悪に陥っていた。
隣では疲れ果てた政宗が眠り込んでいる。おそらく、今日は起き上がれないだろう。寝顔の目尻に残る涙の跡が痛々しくて、自分がしたことだというのに直視できなかった。
今生では初めてだったのに、こんなひどい扱いをしてしまった。鉛のように重い後悔が小十郎の心を苛む。仕事に私情は持ち込まないと決めていたのに、今日ばかりは仕事ができそうになかった。だからと言って、仕事を休んで一日政宗と顔を突き合わせているのは、あまりに居た堪れない。けれど、ぐったりと眠る政宗を独りにすることもできなかった。
相反する感情に挟まれて懊悩するうちに、政宗が重いまぶたを開けた。身じろぎしようとして、「ぁん……っ」とうめいてまたベッドに沈む。どれほどの無理を強いたのかと自責の念に駆られて、小十郎は政宗を掻き抱いた。
「申し訳ありません、政宗様……! この小十郎、なんとお詫びすればよいか!!」
できることなら、この腹を掻っ捌いて詫びたい。刀が手元にないことがこんなにもどかしいことはなかった。その代わりにせめてと振り絞るような小十郎の謝罪は、だが次の瞬間、甘い声が包み込んだ。
「ばーっか。勝手に思い込んでるんじゃねえよ」
予想もしなかった政宗の優しい声には、笑みが混じっている。手荒く初めてを奪われた少女の声には思えなくて、小十郎は呆気に取られて政宗を見つめた。
「お前がなんでこんなことしたか、ちゃんとわかってるぜ。だから、なにも気にしなくていい。俺だって、男として見てるのはお前だけだって伝えたかったから、お前のしたいようにさせたんだ。なにも気にすることはねえ」
起き上がれないまま、政宗は腕を伸ばして、小十郎の頭を梳き撫でる。まさか許されると思っていなかった小十郎は、ただ政宗の顔を呆然と見つめるしかできなかった。
「Thanks、小十郎。おまえのものになれて嬉しい」
柔らかな声でそう告げる政宗は、白いシーツの中でとても神々しかった。