権現と凶王のあまり普通じゃないロマンス 第3章

 三成は月のものが始まった日から、自室と思い定めた座敷牢で、書を読み過ごす日々を送っていた。

 それは、秀吉が存命だった頃、戦がない休日に過ごしていたのと同じ時間で、とても穏やかで満ち足りた時間だった。

 秀吉も、半兵衛も、もういない。だから、書を読んで感じた疑問に答えてくれる存在はいない。それでも、心の中の二人に問いかければ、答えは返ってくるような気がして、三成は淡い微笑さえ浮かべながら紙面を繰る。

 実は月のものは終わって、この城に留まる理由はなくなったのだけれど、この時間を手放すことはためらわれて、三成は座敷牢を出ることもなく、日々を過ごしていた。

「三成、いるかい?」

 そんな日々を乱すかのように、ある日、座敷牢を覗き込んだのは、前田慶次だった。




 客人を座敷牢に通すわけにいかないと言う家康の手配によって、以前三成の部屋として使用されていた座敷に、二人分の茶菓が出される。そこに慶次と差し向かいで座った三成は、慶次がポツリポツリと話し始めた、まだ慶次と3人でいることが多かったころの秀吉と半兵衛の思い出話を聞いていた。

 三成にとって、秀吉は一心に崇拝する存在。そしてその秀吉を支えた半兵衛は、三成が女であることにも構わずに才覚を見出し、育ててくれた、崇拝と同時に感謝してやまない存在。その二人に逆らうなど、天地がひっくり返っても認められないことであったというのに、二人を懐かしそうに語る慶次の口調はとても優しくて、袂を分かち、その行動を阻止しようとした行為でさえ、ただ深い親愛から出たのだと……三成は素直にそう信じることができた。

「それでさ。トシがやめろって言ってたのに、半兵衛は止めないし、秀吉と俺はやっちまうし、結局まつ姉ちゃんにバレてそりゃもう叱られて……」

 懐かしくも楽しそうに語る慶次の口調につられて、三成はめったに見せない笑みを浮かべる。その屈託のない笑顔に誘われるように、慶次は次から次と、秀吉と半兵衛とやらかした武勇伝を語り、普段の三成を知る者にはちょっと想像ができないほど、二人で笑い転げた。

 やがて、話が一段落したころ。

「三成ってさぁ」

 不意に言われて、三成はいったいなにかと慶次を見る。慶次はうっすらと微笑んだまま、三成をまっすぐに見つめていた。

「秀吉のこと、本気で好きだったんだな。すっごいまっすぐな気持ちで聴いてくれたから、なんか、俺も余計なこと考えないで秀吉の話ができた気がする」

「そうか」

 慶次の言葉を受け止める三成は、相変わらず、淡い笑みを刷いて、楽しそうにしている。慶次はうなずくと、大きく伸びをした。

「久しぶりに、秀吉や半兵衛の話ができて、楽しかった! なんだかんだ言って、やっぱり、相手に寄っちゃあの二人の話は、まだしづらいからさ。三成みたいに聴いてくれるの、嬉しかったよ」

「私の知らないお二人を知っているのは、いまや貴様だけだ。私こそ、貴重な話、感謝する」

 姿勢を正して慶次をまっすぐ見る三成に、慶次は首を振るとそっと尋ねた。

「また、話に来ていいかい?」

「好きにするといい」

 三成の言葉は素っ気なかったが、慶次が来たいときに来ていいという意味だと、その口調でわかった。慶次は嬉しそうに微笑み、夢吉を肩に乗せて立ち上がった。

「ところでさ、三成」

「なんだ?」

 立ち去る間際に、慶次は三成を振り返る。怪訝そうに首を傾げた三成に、慶次はにやにやと顔を寄せた。

「最近、恋してるのかい? 関ヶ原で会ったときより数段綺麗だよ」

「なにを言う!?」

 思いがけない言葉を言われ、三成の白皙の美貌が見る間に赤く染まる。耳まで赤くなった三成に「家康と仲良くな」と笑いかけて、慶次は帰って行った。

 後に残されたのは、頬の赤みがいつまでも消えない三成。

 あり得ない。私が家康に恋などと。

 私のどこが、家康に恋している? 家康のどこに、私が恋する?

 日頃から惚れた腫れたの恋だのと言ってばかりいるから、そんな風に見えるのだ。馬鹿馬鹿しい。すこしは落ち着きというものを知って、前田の家名に恥じない振舞いを身に着けたらいい。

 そうは思うが、そう思うほど、きりきりと胸が痛んで、息が苦しいのも確かだった。

 違う。それは恋だからなどではない。こんな苦しさはいらない。家康に恋などしていない。

 秀吉も半兵衛も存命だった頃は、こんな苦しさを味わうこともなかった。なにに煩わされることもなく、ただひたすらに秀吉の背中を追い、半兵衛に学んでいた頃は、戦続きの日々の中、それでも自分は心穏やかに、あるいは揺るがずにいられた。苦しいとか、わからないとか、そんな自分を迷わせ、悩ませるものなどなかった。

 だがいまは違う。自分の考える天下人の在り方と違うことを言う家康を理解できず、理由のわからない苦しさが垂れ込み、戦のない日々の中で、なのに三成はひとときの読書にしか、安らぎを感じられないでいる。

 まるで心の臓を鷲掴むように締め上げてくる痛みは、だが、どこか蜜のように甘い。痛みが甘いだなどと、そう思うことなど、あってはならない。だから、三成はそれに気付かないことにする。

 私はいったいどうしたいのだ……。

 混乱して、三成が苦い溜息をついた、そのときだった。

「三成!」

 慌てた剣幕の家康が足音も荒くやってきた。驚いた三成は、顔をしかめて家康を睨む。しかし、家康は三成の反応にも構わず、両手で三成の上腕を掴んだ。

「いま、前田慶次と口づけをしていただろう!?」

「な…っ!?」

 完全に濡れ衣の問いをかけられて、三成は絶句する。だが、家康には、それは図星を指されて慌てているようにしか見えなかった。

 三成のめったに色が変わらない頬が、赤く染まっている。三成が声を上げて笑ったのは、どのくらいぶりだろうか。慶次と二人きりで、それは楽しそうに長い時間しゃべっていた。そして、基本的に他人との接近を嫌う三成が、慶次と至近で見つめ合って……。

 くっと怒声を飲み込んだ家康は、そのまま三成を引き上げ、手荒く座敷に押し込む。勢いで倒れ込んだ三成に圧し掛かり、動きを封じると、反論しようと口を開いた三成の唇ごと、言葉を封じた。

「んぅ…っ」

 いきなり呼吸を奪われた三成はうめいたが、押さえつける家康の手が緩むことはない。

 昼日中の、開け放たれた座敷で、三成は荒々しく抱かれた。




 日が陰った座敷で、三成は目を覚ました。

 三成は延べられた床に横たわっていた。身体は綺麗に清められ、衣装も寝間着に替えられている。これまでと同じように、大切に扱われているとわかった。

 ためしに体を起こしてみたが、抱かれることに慣れてしまった体は、いまさら違和感も痛みも訴えては来ない。ただ、重たい疲労感だけがあった。

 こんなふうに乱暴に抱かれたことは、いままで一度だってなかった。強引だった初めての夜だって、家康は丁寧に抱いてくれたのだ。

 もっとも、どういうふうが丁寧で、どういうふうが乱暴なのかは、今日手荒く抱かれて、初めてわかったのだけれど。

 これでまた、この城を出ていけない事情ができてしまった。

 三成は家康の子種が注がれた腹をすっと撫で、ため息を吐く。その吐息に安堵が混じっていると、ふと気づいて、三成は困惑した。

 日が傾いた座敷で、三成は目を覚ました。

 三成は延べられた床に横たわっていた。身体は綺麗に清められ、衣装も寝間着に替えられている。これまでと同じように、大切に扱われているとわかった。

 ためしに体を起こしてみたが、抱かれることに慣れてしまった体は、いまさら違和感も痛みも訴えては来ない。ただ、重たい疲労感だけがあった。

 こんなふうに乱暴に抱かれたことは、いままで一度だってなかった。強引だった初めての夜だって、家康は丁寧に抱いてくれたのだ。

 もっとも、どういうふうが丁寧で、どういうふうが乱暴なのかは、今日手荒く抱かれて、初めてわかったのだけれど。

 これでまた、この城を出ていけない事情ができてしまった。

 三成は家康の子種が注がれた腹をすっと撫で、ため息を吐く。その吐息に安堵が混じっていると、ふと気づいて、三成は困惑した。

 私はこの城にいたいのか……?

 自問して、そんなはずはないとかぶりを振る。秀吉と半兵衛が遺した大坂城を廃城にはできない。刑部も弔ってやらなくては可哀想だ。関ヶ原で潰走した自軍の兵たちも、生存者が戻ってくるなら面倒を見なくては。

 やらなくてはいけないことをいくつも思い出して、三成はやはり戻らなくてはと結論を出す。

 戻れるとしたら、いつになるだろう? 豊臣の一員に戻った自分が家康の子を身籠っていてはのちのちの禍の種になりかねない。だから、定石で考えるなら、月のものが来て、身籠っていないとわかってからだ。だが、月のものは終わったばかり。次を待つなら一月後…それも、体調が落ち着いたあとで、なおかつ家康に抱かれないうちでなくてはならない。できるだろうか? あるいは、それよりもはやく、いまのうちにこの城を出る方法は……?

 考えた三成は、ひとつ思いついて、座敷を出た。

 三成が向かったのは、城の裏手にある井戸。そこで三成は肌着1枚の姿になって水を汲み、頭からかぶった。

 汲み上げたばかりの水は冷たく、三成の身を震わせる。だが、三成はかまわずに水を汲んではかぶる。繰り返していくうちに、水温に感覚がなじみ、冷たいと思わなくなる。そして、顎にしっかり力を入れていないと、歯がかちかちと音を立てるようになってきた。それでも、三成は水をかぶり続ける。

 すっかり日が沈み、灯りがなくては周囲の様子もわからないほど暗くなって、三成はようやく水を汲むのをやめた。辺り一面、水浸しになっている。ずぶ濡れの三成は、顔にはりつく前髪をかき上げた。

 このくらいでいいか。

 そう判断した三成は、脱いだ寝間着を手に、部屋に戻る。部屋には、行燈が届けられていた。体を冷やしたいとは思ったものの、ここで寝込んでは意味がなくなると、三成は寝間着を座敷の隅に放り、手拭いで髪を拭き始めた。

「御方様…っ!!」

 廊下で悲鳴が上がったのは、そのときだった。身の回りを見てくれている三成付きの女中だ。呼ばれるたびに、誰が『御方様』かと三成は忌々しく思うが、訂正するのも面倒になって好きに呼ばせている。その女中は、顔をこわばらせて三成に駆け寄った。

「なんて御姿を…っ。すぐにお召し替えをご用意します」

「かまうな。自分の面倒くらい、自分で見られる」

 真っ青な彼女が髪を拭こうと手を伸ばすのを拒み、三成は言い捨てる。三成のそんな態度に慣れた女中は「失礼いたしました」と一礼すると、箪笥から三成の着替え一式を出し始めた。

「お風邪を召されないうちに、どうかお召し替えくださいませ」

 三成がやいのやいのと世話を焼かれることを嫌う性分だと知っている女中は、着替えの支度だけ整えると部屋を出て行った。おそらく、家康に報告しに行くのだろう。

 この展開はまずい。家康が来る前に、城を出てしまわなくては。

 髪を拭く手を止め、三成は濡れた肌着を脱ぎ捨てると、急いで用意された着替えに手を伸ばす。女中に見つかることは想定していなかった。ここで家康が来てしまったら、また振り出しだ。

 甲冑を着けている時間はない。愛用を置き去りにするのはいささか心が痛むが、背に腹は代えられない。袴の紐を締めた三成は、愛刀を握り、部屋を飛び出る。

 その途端、どん!と誰かにぶつかった。この気配は、訊くまでもない。

「家康っ」

「三成!」

 そこには、三成を胸で抱きとめる姿勢で、家康が立っていた。驚く三成がとっさに動けないでいると、家康は三成の首筋に手を這わせた。そのまま、その手をす、す、と動かし、確かめるように何か所かに触れる。

 そして、家康の眉間にぎゅっとしわが寄った。

「すぐに湯たんぽと掻巻を用意しろ」

 口早に傍らの女中へ命じたかと思うと、家康は三成を抱えたまま、座敷に入る。そして、延べられたままだった褥に、三成を包み込むようにして座ると、その手をぎゅっと握った。

「こんなに冷やして、なにがあったんだ。風邪をひくぞ」

「貴様の知ったことではない」

 ぷい、とそっぽを向く三成の身体を、自分の体温で温めようとするみたいに、家康はさらに抱き寄せる。

「いや、ワシの知ることだ。大事な三成が病で寝込んだりなどしたら、ワシは心配で政も手につかなくなる」

「誰が寝込むか。そこまでやわではない」

「知っているさ。三成が寝込んで仕事を滞らせたことがないことも、だが、倒れるまで自分の身体を顧みないことも」

 胡坐をかいて座る家康の懐に深く抱き込まれた三成は、家康の表情を見ることができない。だが、その声は慈愛に満ちていて、温かく三成を包み込もうとしていた。

「髪も濡れているな」

 懐から手拭いを取り出し、家康は片腕を三成の身体に回したまま、もう片方の手で三成の髪を拭き始める。まるで愛猫をかまうようなやり方に、三成は憮然とするが、家康の腕に逆らう気が起きないのも確かだった。

 指先がしびれるような冷えが治まり始めた頃、女中が湯たんぽと掻巻届けに来た。家康は受け取るなり、三成に湯たんぽを抱かせて、その背中から掻巻で包んだ。

「もう貴様はいい。さっさと離れろ」

「そう言うなよ。三成が心配なんだ」

 そう言って、家康は三成を正面から抱き締める。冷えを感じていない家康は、湯たんぽに掻巻など、暑いだけだろうに。

「冷え切った体で、どこに行くつもりだったんだ?」

「私が行く場所は秀吉様と半兵衛様のおわすところ、大坂城のみだ」

「三成は、そんなに大坂城に戻りたいのか」

 家康の声に、寂しさと悲しさがこもる。いたわるように頬に触れる指が、切なげに弱い。

 そんな家康に、三成は淡々と応えた。

「もちろん、戻りたい。私には大坂城でやらねばならないことが山とある」

 すると、家康の表情がきゅっと険しくなった。声音も硬く、問いを重ねる。

「やらなければならないことをするために戻りたいのか」

「そうだ」

「なら、やらなければならないことがなければ、大坂城に戻らなくてもいいのか」

 家康に問われた三成は、きょとんと家康を見つめ返したのち、考え込むようにうつむいてしまった。

「三成?」

「やはり私は、戻りたい」

 しばらくの沈黙ののち、三成は迷いながらそう答えた。

「秀吉様と半兵衛様のご遺志を継ぎ、あるいは継ぐ者を見守り、豊臣の旗の下に力を尽くした者たちに報いることができるなら、その場所は大坂城でなくてもいいのかもしれない。だが、大坂城は秀吉様が築かれた城、私にも思い入れはある……」

 迷いながら、あるいはためらいながらそう答えた三成の顔には、思いがけないことに気付いた驚きが浮かんでいた。

「だが、迷いもあるようだな?」

「迷い?」

 驚いて家康を見た三成は、だが、また力なくうつむいた。

「そう、だな……。確かに私は迷っている」

「なあ、三成。三成がこれまで考えていたことは、本当に『そうでなくてはならない』ことだったんだろうか。ワシは、一度すべてを白紙に戻して考えてもいいんじゃないかと思うんだが」

「すべて白紙に、だと?」

「そうだ。三成はいままで、すべてを秀吉公と半兵衛殿の目指す天下の実現のために捧げてきた。もう、次の目標を見つけても、お二人は許してくださるんじゃないだろうか。三成が、三成自身の望むものに向かって手を伸ばしても、お二人は笑って見守ってくださるんじゃないだろうか」

「貴様! 秀吉様と半兵衛様を代弁するか! 身の程をわきまえろ!!」

 キッと家康を睨みつける三成を、家康は静かにうなずいて受け止める。

「そうだな、おこがましいかもしれない。でも、もしワシに大切な者がいて、ワシがその者を残して逝くことになったら……ワシは、その者がしたいと思うように振る舞い、生きたいと思うように生きてくれることこそを願う」

「……………………………………………………」

 家康の穏やかな諭しを、三成は黙って聞いていた。納得していないことは、ぎゅっと引き結んだ口元を見ればわかる。だが、三成は自身を包む家康の腕をはねのけようとも、すり抜けようともしなかった。

 そして、三成は家康に抱えられたまま、眠りに落ちた。


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