「よう、三成。邪魔するぜ」
「長曾我部」
ふらりと訪れた人物を見て、三成は驚いた。先日の前田慶次は、三成から声をかけたことがあるから来てくれたのだろうと思っていたが、他にも自分を訪う者がいるとは思ってもいなかった。「遠いところをわざわざ、なにをしに来た?」
「それほど遠くもねえよ、富嶽にかかりゃすぐだ。…いやなに、慶次から、あんたが家康の城に囲われてるって聞いてよ。様子を見に来たのさ」
思い切り怪訝そうな三成とは対照的に、元親は座敷牢を気にすることもなく、格子をくぐると、どかりと胡坐をかいた。
「よくここまで入って来られたな。家康は客間を用意したはずだ」
「おう、本多ってのが客間に通そうとしやがったぜ。堅苦しいのはごめんなんでな、撒いてきたがよ」
「なるほど」
元親の言う『本多』は、忠勝のことではない。正信の方だ。頭脳派の彼なら、元親に強行突破されては、太刀打ちできなかったことだろう。さもありなんと三成はうなずく。
一方で、元親は室内をぐるりと見回して、嘆息した。
「家康の野郎……。てめえの女を座敷牢に入れるだけでもわからねえが、その格子に鍵もかかってねえとは、ますますわからねえな」
不思議そうに格子の戸を振り返る元親に、三成は平淡な声で説明する。
「この牢に居続けているのは私の意志だ。鍵をかける必要はないと判断したのだろう」
「囚人じゃねえのに、座敷牢暮らしかい。あんたもたいがい変わってるな」
「好きに言え。私はただ、この部屋の静けさが気に入っているだけだ」
三成の言葉を聞いて、元親はなるほどとうなずいた。牢として使用される部屋だけあって、城の中心からは外れた場所にあるし、人通りも少ない。陽当たりがよくないが、その分空気が落ち着いていて、静かだという点では確かに優れている。
そして……
「この城を出ていく気はねえが、奥御殿の上座敷に据えられるのは我慢がならねえかい?」
わずかに苦笑の混じった元親の口調に、三成はぴくりとこめかみを引きつらせる。
「なんだと?」
「これだけの城だ、静かな部屋なら、ほかにいくらでもあらあ。だが、あんたはここに…この部屋から動かねえ。座敷〝牢〟でなきゃならねえ理由があるんだろう?」
「長曾我部…!」
元親の指摘に、三成は息を飲む。
まさか、この男は気付いているのか。三成でさえまだしっかりとつかんでいない、三成の中にひっそりと息衝いているこのほのかな感情に。
三成の胸を締め付け、冷静な思考を妨げる、甘い麻薬のようなそれの正体を。
「黙れ! 勝手な憶測を口にするな! それ以上私の感情を蹂躙することは許可しない!」
反射的に、三成は叫んでいた。この瞬間、間違いなく思考は霧散して、なにも考えてはいなかった。ただ、言葉にしてはいけないなにかに反射していた。
言葉にしたら、否定できなくなる。三成の無意識が、そう訴えて、元親の指摘を拒んでいた。
元親は、まるで、そんな三成の反応さえ予測していたかのように、動じることなく微笑んでいる。
「なあ、三成。なにをそんなに怯えてやがる? あんたを脅かすものなんか、なにもねえぜ? 怖いんなら、俺が味方になってやる。だから、自分のありのままを受け入れろ」
「ありのままだと?」
「そうだ。義務や使命なんかじゃねえ、純粋なあんたの望みだ。『しなきゃならねえ』ことじゃねえ、『なにをおいてもしてえ』ことだ」
「なにをおいても、したいこと……」
「そうだ。あんたはなにがしたい?」
三成自身が願っていることを、聞きたいと言った者はいままでいなかった。秀吉も、半兵衛も、家康でさえ、「いったいなにをしたいと願っているのか?」という問いを三成に投げかけたことはただの一度もなかった。
元親が初めてだ。三成がしたいことはなにか、尋ねてくれたのは。
呆然と鸚鵡返しする三成に、元親は力強くうなずく。すべてを受け止める微笑みを浮かべた元親は、これまで三成が接したことのない抱擁感を漂わせていた。たったそれだけの反応さえ、三成にはとてつもなく安堵できる行為だった。
本音を言ってもいいのだと感じた三成は、ずっと温めてきた願いを口にする。
「なにをおいても………私は、秀吉様と半兵衛様が望まれた平らかな世を……叶え、守り抜く…っ!!」
絞り出すように叫んだ三成に、元親は数瞬呼吸も忘れたようだった。そして、悲しいながらも納得した表情でうなずいた。
「そうか……。そうなのか。それであんたは座敷牢にいるんだな。座敷牢から出られねえんだな。……可哀想に」
「私を憐れむな! 私は憐れまれるようなことなどしていない!」
「そうだったな。すまねえ」
元親はすぐに素直に頭を下げたが、三成はふいとそっぽを向いた。そんな様子からも、元親は三成がこの城を離れられない理由を察して、三成が可哀想で仕方がなくなる。
この先、三成は一生、家康の城から出ることはないだろう。三成の願いと、想いが変わらない限り。だから余計に、三成にとってこの城にいることこそが幸せであると認め、受け入れてほしいのに、三成は自分が幸せを感じることに罪悪感を持っている。
元親は三成の友人のつもりでいる。友人として、自分から幸福を遠ざけようとする姿を見るのは、辛い。
「なあ、三成……」
気づいたら、元親は言葉を発していた。
「俺と来ねえか? 俺と一緒に、海を駆け回らねえかい? あんたになら、野郎共もきっとすぐに懐く。一緒に海を巡って、見たことねえもんを見て、民を脅かす奴がいたら一緒にぶちのめしてよ。どこかで、もしあんたが惚れる男に出会ったら、嫁に行けばいい。……どうだ?」
三成に向かって伸びた元親の手が、三成の前髪を慈しむようにくしゃりと撫でる。三成は思ってもみなかった元親の提案に、ただ驚いて、目を瞬いた。
「豊臣の遺志を継いで、そのために生涯尽くすのは立派な決意だ。けどよ、三成。望んだことをやっているはずなのに、あんたは笑ってねえ。俺はあんたが笑ってる顔を見たことがねえんだ。……俺はあんたが幸せそうに笑う顔が見てえなあ」
きょとんと元親の言葉を聞いていた三成は、元親の微笑む顔を見て、きゅっと目元を引き締めると、まるで、泣くのを我慢しているようにうつむいた。
「私のためを思ってくれることには感謝する。だが、私はこの城を出られない。……すくなくとも、この腹に子が宿っていないと確定するまでは」
もしも子を宿しているなら、秀吉と半兵衛が望んだ太平の世を乱す要因を、自ら作ることはできない。うつむいた視線の先の平らな腹を、三成はそっとおさえる。
だが、元親は三成の苦い声をからりと笑い飛ばした。
「そんなのはなんてことねえ。あんたの腹に赤ん坊がいた時は、俺の子だってことにすりゃいい。そうすれば、もしあんたがこの城を出た後で赤ん坊を産み落としても、なんの問題にもならねえだろ」
「長曾我部の子だと?」
想像もしない提案に、三成は顔を上げて元親を見た。そのきょとんとした顔に、元親は鷹揚にうなずく。
「そうさ。俺の子なら、天下を揺るがしようもねえ。それなら、あんたが孕んでようがいまいが、この城を出ることになんの不都合もねえだろ」
「それはできない」
反射的に、三成は元親の提案を拒んだ。きっぱりと、揺るぎのない口調で。
言葉を発した三成は、その瞬間に気付いた。自分はここに『いなければならない』のではない。自分の意志で『いたい』のだと。自分がこの城を離れられない理由としていたことが解決しても、それでもなお、この城を出られないと思うのは、この城を出たくないからこそなのだと。
愕然とする三成を、元親が慈しむ眼差しで見つめる。この展開を意図していたわけではないが、結果として三成は自分自身のありのままを見つけた。元親はそれが嬉しかった。
「だったら、この城にいりゃいい。この城であんたの幸せをみつけりゃいい。……自分でも気付いてるんだろ、ここでどうなりてえのか?」
「だが…っ! 自分だけの幸せを望む不遜にご許可を願うことなど、私には…!!」
親の叱責を恐れる子供のように委縮する三成に、元親はゆっくりと首を振った。
「そうじゃねえ。豊臣が望んだ天下統一は、家康が叶えた。だから、三成が考えるのは、その状態を継続していく方法だ。言い換えるなら、家康を支える方法だ。あんたが、家康が世のために働き続けられるように、支えるんだ。……あんたにしかできねえ大仕事だぜ」
「仕事……」
らしくなく長広舌で三成を諭す元親は、だんだんと険が消えていく三成の変化に気付いていた。もし、三成が秀吉への忠義と自分自身の幸せを両立させられると納得してくれたら……。そう願って、元親はさらに言葉を続ける。
「そうだ。あんただけの務めだ。……その務めを果たしていく過程で、あんたが幸せを感じる瞬間もあるかもしれねえ。けど、それは役目を放棄して得たものじゃねえ。だから、誰にも咎められることはねえ。…違うかい?」
「違わない。…だが、自分のことを顧みる余裕があるとは、務めに全力を注いでいない証拠だ。それは怠慢に他ならない」
「そうか? なら、あんたは豊臣のためにいくつもの合戦に出陣して、充実感や達成感を覚えることは一度もなかったのかい?」
「……っ!」
元親に指摘されて、三成は絶句する。確かに、秀吉の役に立っている自分が誇らしかった。半兵衛の戦術を完遂することが嬉しかった。常に全力で職務に取り組んでいながら、だが三成は確かに個人的な幸福感を味わっていた。
「務めを全うして感じる幸せは、怠けていたら絶対に味わえねえ。あんたが感じてる幸せは、全力で尽くしているからこそのもんだ。誇れよ」
ここまで言ったら、あと元親に言えることは、もう残っていない。言える言葉が見つからなくなっている三成に、元親は笑いかけた。
ここを出たら、おそらく元親は二度と三成には会えないだろう。家康への忠義が厚い徳川の家臣たちは、三成に親し気に接する元親をよく思わないはずだ。家康を訪ねてくることはできても、三成とこんな風に会話することは許されないだろうと予想できた。
最後に三成の笑顔を見たかったが、三成の気持ちをそこまでほぐすことは、いまこのときにはできそうにもない。いつか三成が家康の城で幸せにしていると噂を聞けでもするなら、いいか。そう諦めて、元親は立ち上がった。
「長曾我部?」
「そろそろ帰らぁ。女の部屋に長っ尻もみっともねえや」
「貴様は私の友人だ。気にすることはない」
唐突な退去の挨拶に、三成は戸惑いながら引き留めるように自分も腰を浮かす。元親は三成を振り返ると、ゆっくり首を振ってその動きを制した。
「家康はああ見えて、あんたのことになるととことん狭量になる。あんまりほかの男を構うな」
元親の言うことに心当たりがあるのだろう。三成ははっと息を飲んで動きを止める。それでいいと元親はうなずいた。
「俺があんたの友人であることは変わらねえ。困ったときは遠慮なく頼れ。…でも、家康をあまりヤキモキさせねえでやってくれるか。あいつも俺の友人なんだ」
ニカッと笑う元親に、うなずく以外、三成はどう答えられただろう?
元親はそんな三成を少しの間見つめると、ひらりと手を振って去って行った。
一人残った座敷牢で、三成はじっと瞑目する。静寂の中、元親に言われたことを何度も何度も反芻し、ひたすらに考える。
自分がどうしたいのかは、元親が気付かせてくれた。そのための方便も、元親が教えてくれた。では、その次。自分がどうしようと思うのかは、自分で考えなくてはならない。元親にここまで教えてもらったのだから。
一心に考え続ける三成は、正信が元親の退出を確認しに来ても、女中が夕餉の膳を運んできても、すこしも気付かなかった。
行燈が用意され、膳が整った夕刻の部屋に、家康がやってくる。日課になっているように、三成と夕餉を摂り、褥を共にするために。
「三成」
声をかけても反応しない三成に苦笑して、家康はそっと肩に手を置く。
「三成」
「……家康か」
目を開いて仰ぎ見ると、家康の微笑みがあった。三成が現実に意識を戻したことを確認した家康は、向かい側の自分の膳の前に座る。
「今日、元親が来ていたそうだな」
「ああ。久しぶりに話をした」
箸をとり、食事を始めると、家康は食べる合間に質問する。黙って食うより食が進むというのが持論らしい。三成も箸を口に運ぶ合間に答える。
「元気そうだったか?」
「ああ。相変わらずだった」
「ワシも会いたかったなぁ」
「貴様は天下人だ。諸国の大名は貴様の指示を仰がねばならない。長曾我部が来る機会もあるだろう」
「そうなんだけどな」
大どんぶりで食事する家康と、小鳥のえさのような量を食べる三成の食事は、だいたい同じ頃に終わる。三成なりに気を使って、食べる速度を調整しているのだ。まあ、家康が早食いだということもあるとは思うが。
箸を置くと、女中が膳を下げて、お茶を運んでくる。差し向かいに座ったまま、その茶を飲んでいると、ふと静寂が訪れた。
別に、ふたりで黙っていることも、特に苦痛ではない。だいたい、会話が途切れること自体、珍しいことではなかった。
だが、今日は、三成はその沈黙を破るように口を開いた。
「家康」
「ん?」
「言おうと思っていたことがある」
「なんだ?」
「私を抱け」
ごふっと家康が茶にむせる。三成にはずっと考えた末での発言だったが、家康には唐突で、しかも今までの三成なら決して口にしない言葉だったからだ。
げほげほと咳き込む家康にかまわず、静かに茶碗を置くと、三成はまっすぐに家康に向き合った。
「長曾我部と話をして、思った。私は、この期に及んでもなお、秀吉様と半兵衛様に依存しているのだ。お二人のご教示をこの胸に銘記して生きていくならば、私はまずそのことに気付かなければならなかった。そして私は、すべてのことを自らの意志で選び、決め、成していかねばならない」
「三成……」
咳が静まった家康は、姿勢を正すと、三成の視線を受け止める。その眼差しは、いつになく厳しい。
「それで、なぜ『抱かれる』ということになる? これまでさんざんお前を好きに抱いてきたワシが言うのもおかしな話だが、情事とは責務として行うものではない」
「責務などと、そのようなつもりはない。ただ、これまで成り行きにまかせてきたことを、私の意志で受け入れたいのだ。だから、私を抱け、家康」
三成の声は冷静で、そしてとても穏やかで気高かった。しっかりと地を踏みしめているような、そんな強さを備えていた。
以前の三成の儚さも、美しくはあった。だが、いまの三成の方がもっと美しい。
三成の心の変化を実感した家康は、ふっと表情を緩めると、三成の身体を引き寄せた。
その晩の閨で、三成は初めて快美に啼き、戸惑いながら乱れた。男の腕の中で自分がこんな甘やかな声を上げるのだと三成は初めて知った。
最初の夜と同じように、三成は抱き潰された。だが、翌日に残る疲労はまるで違って、それは蜜の中でおぼれているようだった。