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ベトナム/カンボジア旅行記

第3話 ホーチミン市内とクチ

噂どおり、ベトナムの朝は早い。7時を過ぎる頃、もう工事現場の鉄パイプを叩く音が鳴り響く。この騒音で私は起こされた。昨夜はたっぷり睡眠をとることが出来た。日本を離れるとき風邪で体調が思わしくなかったけれど、これですっかり快復した感じだ。

ホテルの1階にある形ばかりのレストランで、朝食にベトナムのパンと紅茶、それに目玉焼きを注文した。パンは、市内の市場や露店のいたるところで売っている、飾りっ気のない20センチほどの長さのミニ・フランスパン。とても柔らかくておいしい。目玉焼きは、ただ卵2個が焼かれて皿にのっているいるだけで、何かが添えてあるわけでもない。メニューには「バター、ジャム付き」とあったのだが、出てきたパンには付いていない。紅茶にもシュガーやスプーンを添えていない。どこかちぐはぐな持ってきかただが、気が付いている気配がない。たまりかねて、こちらから声をかけもって来てもらった。一口サイズのバターは、「プレジデント」というブランド名がついていた。裏を見ると「フランス製」と書いてあった。

ベトナム人ガイドのチー(天生智)君は、8時30分を少し回ったところで一日目と同じく運転手つきのトヨタカムリに乗ってロビーに現れた。すぐに、クチに向かって車を走らせる。ホテルから片道約1時間半の距離だという。毎日そのくらいの時間をかけて通勤している私にしてみれば、それはたいした時間ではなかったが、チー君にすれば相当な時間に思えるのだろう。とにかく、早く出発しなければ戻ってこれないという言い方をする。
 田舎に通じる国道沿いには、いたるところバラックのような店が軒を並べ、何かを売っている。人口の膨張と同じで、ものが路傍に溢れかえっている。「ストック」とか「在庫」という考えがないのかもしれない。持っているものは、ありったけのものを並べ立てているようにも思える。何か商売をしなければ生きていけない衝動に駆られるように、道端にうずくまっている人でさえ何かの品を足元に並べて商いをしている。

道のほうはといえば、こちらも人や荷物を後ろに乗せたバイクや自転車が怒涛のように流れていく。目の前を疾走する二輪車になぜ「ホンダ」という名前が付いてしまったのかふしぎだ。チー君もわからないといった。あちらこちらの車、バイクのクラクションは鳴りっぱなしだ。騒音が騒音を呼び、危険を知らせる役目にもなっていない。完全に運転者のストレス解消の手段になってしまっている。

「ホンダ・ガールには気をつけてくださいネ」とつぜんチー君が言い出した。「ホンダ」ということで急に思い出したのかあるいは日本からの観光客に同じような偏見があるのかは知らないが、それは唐突な話題だった。軍部が強い権力を持つベトナムには「経済マフィア」はいないが、細々と「セックス・マフィア」だけは存在する。その組織の末端が、道ゆく男性旅行者に声をかけてくるミニ・バイクに乗った女性なのだという。20ドルや30ドルという安い金額を言ってくる。ベトナムは公安のチェックが厳しく、ホテルの部屋に宿泊客以外の女性が夜通し滞在することはできない。外国人がベトナム人の個人の家に宿泊することも要注意である。そんな状況だから、「商談成立」後の旅行者は彼女のバイクの後ろに乗って郊外の彼女の秘密の部屋に行くしかない。そこで、マフィアの仲間が現れ、「有り金全部」を巻き上げられてしまう手口だという。だから、現金はあまり持ち歩かない方がいいという。むしろカードをもっていて、その日に使う分だけ銀行でキャッシングで引き落とすのが一番便利で安全だと教えてくれた。事前に仕入れた「カードは使えない」という情報と、かなり食い違っている。旅行者でも銀行を使い慣れていれば、確かにこの方が便利かもしれない。

チー君の話の勢いは、止まらない。「ベトナムにも援助交際というのがありますよ」とまたどきりとする発言。日本よりも進んでいるという。たとえば、気に入っている女子高生などがいるとすると、彼女の家に行き卒業するまで学費の面倒を見るので娘さんと付き合わせてほしいと懇願、「親の承諾」を得て大人の交際をするのだという。もしこの話が本当なら、文字通り「援助」がなされるわけだ。しかし、貧しさが背景にあり、形を変えた「人身売買」のようにも聞こえ穏やかならぬ話ではあった。

道ゆくバイクの数がますます増えている。誰も彼もが、口元を布で覆って覆面強盗の群のようなありさまだが、スモッグを少しでも防ぐために苦肉の策を講じているのだ。フィリピンのマニラなどでも同じ光景を見かける。よく見るとバイクに乗る人々の多様性が面白い。どんな商売をしているのか、何の目的でバイクを走らせているのか、その身なりや荷に生活感がにじみ出ている。この人はどんな暮らしで、何のためにいまバイクを走らせているのだろうとあれこれ想像しながら、クチの田舎道に入る。

クチ県は、ホーチミン市に隣接するベトナム一の貧しい地域。政府の決定で、今年から開発を優先することになったらしいが、ついこの間までまだ電気が通じていない場所も多かったという。

ガイドのチー君は、道すがら相変らず自分の売り込みに熱心だ。今度来るときには自分に頼めばビザが早く安く手に入る。夜の食事をするところでも、普通のガイドではなかなか連れて行かないいいところを知っているとしきりにいう。また日本語だけでなくフランス語もできるとさらに自慢。かつてホーチミン医科大学に入学していたことがあり、受験準備も含めてフランス語は7年間勉強したのだという。医者の処方する薬はすべてフランス語なのだそうだ。ひととおり彼のPRを聞かされたところで、クチトンネルの観光スポットに到着した。

道を挟んで、片側に小さな平屋の建物がある。ここが受け付けをし、入場料を払う。建物の中には小部屋があり、そこでまずクチのトンネルの説明のVTRを見せられる。ベトナム語、英語と日本語の解説が時刻に応じて順番に行われるから、早く行っても多少待たされることがある。私たちは運悪く、ズレたタイミングで入ったためガイドのチー君の機転で、先にトンネルめぐりをしてから最後にVTRを見ることにしてくれた。カーキ色の制服を着た施設の若い専属の案内人がわれわれを誘導してくれる。

トンネルにいたる小径は、入場手続きの建物とは道を隔ててすぐ反対がわにある。敷地に入る前に狭いゲートがあって、なだらかな上り坂を昇るとすぐ手製武器の小屋が現れる。「武器」といってもそのほとんどが「落とし穴」だ。カーキ色の服の若い案内人が、無言で穴の模型の蓋をあけたり閉めたりしている。要するに、ベトコンのゲリラが落し穴をいろいろ作ってゲリラ戦を闘いアメリカ兵を倒したということなのだが、その落し穴のバリエーションをひとつひとつ解説している。言葉での解説は、チー君が日本語でする。カーキ色の彼は、それにあわせて鋭く長い釘が何本も刺さっている蓋を開け閉めしているだけだ。

チー君は、長い間国営旅行会社「サイゴン・ツーリスト」のガイドをしていて、何度も日本人観光客をこの場所に連れてきていた。英語と違って日本語のガイドはベトナムでは貴重な存在で、通常のガイドの二倍のギャラを取るという。だからか、いま彼はガイドをやめて別な事業をしているのだが、その本業を中断してまで私のガイドを買って出ているのだ。どこの観光名所に行っても、施設の関係者や他のグループのガイドと彼は顔見知りのようだった。

さて、ベトコンの手製の武器を実演しているカーキ色の若い男性は、その熱演ぶりに水を差すようだが、おそらくベトナム戦争を知らない世代だろう。1975年4月30日、ベトナム民族解放戦線(ベトコン)がサイゴンを陥落させ、ベトナム戦争が終結してから、25年たった。この国の若い世代はもはや、戦争体験がない。

トンネルに至る森の小径は、今でこそ樹木が生えてはいるが、戦争当時はアメリカ軍が空中から飛行機で散布した枯葉剤のために焼けてしまい下草しか生えていなかったという。小径を少し外れた場所にはいまでも地雷が埋まっていると聞かされてぞっとした。道の途中には、戦車の進行をはばむためのいく筋もの塹壕が掘られている。塹壕のいたるところにも、トンネルの出入口が掘られている。途中カーキ色の案内人が、枯葉を手でかき分け、実際のトンネルの入り口に腰のあたりまで入って見せる。見ただけでも狭い。私には片足しか入りそうもなかった。しかし、痩せて背の小柄なベトナム人は大人でも易々と入る。重装備を仮にといたとしてもアメリカ兵の大柄な体格ではとても入り込めないサイズだ。

さて、いよいよクチのトンネルに入ってみることになった。入り口は観光客が誰でも入れる大きさに拡大してある。しかしそこから先は、実際のものと同じ狭さだ。カーキ色のお兄さんが先に入って手招きをする。わずか30メートルくらいの迷路に入るのを私はためらった。

まず極端な「閉所恐怖症」があり、そういう場所に入ると出られなくなったときのことを考えて、そのストレスが心臓の脈動に悪影響を及ぼし、信じがたいが呼吸困難状態になるのだ。入り口をちょっと入ったところで、私は恐怖心から、その「発作」に近い状態になり何度も引き返した。

もうひとつの理由は、狭い土壁にこびりついている「かび」の臭いが鼻につき、「かびアレルギー」のある私にはたまらなかったのだ。私の心臓はつぶれそうになり、脂汗がだらだらと流れほんとうに呼吸困難が始まった。結局死ぬ思いで僅かな距離の観光用のトンネルを抜けきったのだった。

それから、野戦病院や作戦室、ダイニングルームなどの穴を見てもとの道を引き返した。これらの施設は、実際には地下に三層に掘られた中にあった施設で、観光用に地上に掘り、トタン屋根をかぶせたものである。

最後に入場施設の日本語のVTRを見て簡単な解説を聞いた。日本人観光客のいくつかのグループが集っていたが、どうしてそうなったのか、チー君が会場の案内役の女性の説明をみんなの前で代表して通訳していた。たぶん、サイゴン・ツーリスト時代から、彼の日本語力をみんなが知っているので、たまたま私のガイドでその場に居合わせたので、通訳を頼まれたに違いない。

チー君の日本語は、まずまずだと思う。しかし、肝心なことが通じていないということがままある。ベトナム全土で、日本語を話すベトナム人は約100名程度しかおらず、そのほとんどとチー君は顔見知りだといった。

クチをあとにして、ホーチミン・シティに戻る途中、ベトナム料理の巻き物などでお馴染みのライスペーパーを乾燥させている光景に出くわしたので、写真撮影のため車を止めてもらった。ライスペーパーは、最近ベトナムから日本に輸出する量が増えてきているという。しかし、日本での検疫は厳しく行われているという。ライスペーパーは、白い「無地」のものが一般的だが、ベトナムでは黒ごまをまぶしたものも人気があるとか。私はそういうものを見たことがない。

いよいよホーチミンに入ろうというとき、チー君がどうしても見せたいものがあると言い出し、私たちは予定にない場所に車を向けた。ホーチミン市のはずれにVIPにしか分譲していない地域がある。そこに自分の土地があるので案内したいと彼はいう。その地区には、まだ名前がついていなかった。しかし、確かにある一角に、建設中の四、五十軒ほどのマンション(邸宅のこと)が目につく。その地区の真ん中に大きな道路が建設中で、カンボジアとホーチミンの中心部をつなぐ幹線道路になるという。政府が、VIPとくに政府の要人など向けに秘密裏に開発を進めたようで、一般の市民の八割以上は、そのエリアの存在自体を知らないのだという。それを裏付けるように、言われるままにハンドルを切ってきたホーチミンの男地元民である車の運転手が、「こんなところがあったとは知らなかったと」驚いていた。どのマンション(邸宅)も間口は狭いが高さは2階建て以上で、奥行きが広い。2階建て以上というのは、この地区を限られた人々に分譲するにあたって、政府が新たに決めた規則だという。地区の真ん中に、昨年新設された、ホーチミン市最大の高等学校が建てられすでに授業が行なわれていた。「何ていう名前の高校?」とチー君に聞いたら、「わからない」と答え、そのあとすぐ訂正して「まだ、名前がついていない」といった。えっ?もう授業しているのに、その高校に名前がない!嘘でしょうと、その学校の回りを一回りしたら、正門の横に看板が建っているのを見つけた。チー君が読み上げ「上流階級の高校」と書いてあるといった。やっぱり、名前はないようだ。そもそも、一級国道クラスの工事がかなり進んでいながら、この地区にまだ名前がついていないときいてベトナムという国がわからなくなった。

チー君は、ここが自分の購入した土地だと説明してくれた。こういうことが出来るのも、自分が政府の偉い人の子供と知り合いだから、といって憚らない。「土地はもう一ヶ所ある」といって、彼は同じエリアの別な場所に車を向かわせた。こちらは、小さい土地。しかし、立派な家が建ちそうな間口と奥行きである。

分譲地めぐりが終わり、中央駅に足を伸ばした。一国最大の駅にしては意外に小さく人も少なかった。ただ、人気のニャチャン行きの切符売場の窓口だけは妙に雑然と込み合っていた。みんな小さな小窓の回りに首を突っ込むようにして、我先にと切符を買おうとしている。列の順番などはない。

中央駅をあとにして、私たちは昼食を摂ることにした。11時半を回っていた。安い地元の庶民的な料理が食べたいといったら、チー君がホーチミンで一番有名な「お好み焼き屋」に案内してくれた。ここも店の名前はなく「お好み焼き専門店」と看板に書いてあるのだそうだ。どうもベトナムという国では「ブランド」という概念がないようだ。ホテルにしても「なになに通りホテル」のような感じだし、レストランにしても「お好み焼屋」「てんぷら屋」「すし屋」といったカテゴリー名で通っているように見える。テーブルに着くとすぐなぜか皿いっぱいの青菜をもってくる。これは、注文外のサービスメニューだ。

チー君の推薦で、お好み焼二枚を注文。かりかりの皮に、豚肉もやし炒めのような具がたっぷり入っていて、けっこうボリュームがある。私は汁そばのミーン。チー君と運転手は豚肉ライスをそれぞれ一枚ずつ。私にはさらに魚の甘露煮のようなメニューとライスを頼んでくれた。それから、小粒のベトナム風揚げ春巻き一皿、といっても十本くらいついてくる。さて、驚くのはこれで三人分全部しめて、日本円で1000円くらい。デザートに食べ放題の竜眼までついているのにである。この物価の安さには驚かされる。

昼食を終えて、きょう残されたスケジュールは、戦争博物館見物津のみとなった。ホーチミン市内の中心部に引き返す途中、チー君は再び妙なことを持ち掛けてきた。「戦争博物館に行く前に、こちらのモデルと会ってお茶でも飲みませんか?いまは昼休みで開いてないとおもいますから」といいながら、携帯電話で誰かとしきりに話している。

(なんのかんのといって、お前の彼女とのデートにおれを付き合わせる気か!)と疑ってみたりもしたが、面白いからとりあえずついていってみようと腹をくくった。

車を停めた場所は、ホーチミンのコンベンションセンターも入っている地上33階建ての「貿易センタービル」。エレベーターは32階までで、そこから階段を一階上った最上階に、「パノラマ」というカフェがあり、そこで「モデル」の女性を待つことにした。「パノラマ」から望むホーチミン近郊の眺望は絶景である。休日などは、デートの客で満席になるという。

チー君は、このカフェで顔のようだった。よくみると彼がかぶっている帽子の正面に、ホーチミン・ゴルフ・クラブと刺繍してある。(えっ?ゴルフやるの君)と言いかけて、やめた。(こいつ、どこまで本気なんだろう。きのうから黙って聞いてりゃ、自慢話ばっかりじゃないか。おれの前で、最大限見えを張ってどうしようっていうんだ)

そのくだんのモデルが登場した。直感で「おれは違う!」と思った。丸いテーブルで彼と私のあいだに彼女は座った。日本語も英語も話さないので、紹介されたあとも、私とは話がはずまない。通訳を介して話そうとすると、どうも私が彼女の身上を根掘り葉掘り聞いているスタンスになってしまう。

ベトナム人に似合わず、すごく色が白い。髪は長いし、背は高い。スタイルもいい。しかし、どうも暑い国の連中は、色が白けりゃ美人だと思い込む傾向があるようだから用心しといたほうがいいかも。フィリピン人が、そもそもそうで美白に熱心だ。ハノイ出身で年齢は20歳だという。しかし、この手の顔は歌舞伎町あたりにぞろぞろいる気がした。色が白いだけで、容姿にはネガティブな意味で田舎の雰囲気が漂い過ぎている。つまり、気品、品性がまるでないのだ。決定的なのは、その白さの奥から、両目尻の下にしみが点々と浮き出ているのだ。田舎っぽくってもいい、せめて愛くるしさや、笑顔がかわいいとか何かプラスの要素が欲しかった。でも、正直いって「これでモデルなの?」ってな感じ。

ところがチー君は何だかうっとりしているし、ゴルフ・クラブの帽子を少し持ちあげながら空いた手のひらで頭を後ろになでつけたりしている。結局、昼休みにどこの公共施設もいったん閉館するという理由だけで、暇つぶしに付合わされた格好になった。私が呼んだわけではなく、ただ「同意」しただけなんだけど、始末に負えない。こういう場合もしチップをあげられるのでしたらUS10ドルくらい気持でいいですから、と言われちゃ、「いやだ」と断るわけにもいかない。結局、わけのわからないものに10ドルの出費。ビルの外の車の中で、そのモデルを垣間見た運転手までが「きれいな女性ですね。誰ですか」とチーさんに聞いている。私はもうみんなぐるになって陥れようとしているのではないかと疑心暗鬼になってしまった。

確かに美人の基準というか、美意識というか、それは国によってまちまちのような気がする。数年前、あるきっかけで、マレーシアのミス・インターナショナル代表という女性に会ったことがある。イタリア人かアラビア人のような彫りの深い顔立ちをしていて、正直言って彼女私にはどぎついイメージしかなく、いまでも「あばずれ」っぽい印象だけが残っている。同じようにフィリピンのマニラで、ある友人の紹介でミス・インターナショナルのフィリピン代表に会ったときにも、背がすらりと高いが、ヨーロッパ人のように鼻が高く、その長所がゆえに逆に全体のバランスを崩しているように見えた。ミャンマーの美人の典型は、日本人なら敬遠するであろう「でぶ型」だ。自分の好みという部分もあるが、本質的に美人の基準にはその国固有のものがあると感じている。

それから、戦争博物館に行き、ベトナム戦争当時のアメリカ兵の悪事の数々を学習して、疲れたからだでいったんホテルに引き上げた。きのうと同じように画像をPCに取り込んでサイズダウンさせたりした。

6時30分チー君が、バイクでホテルにやってきた。ホンダではなくスズキだが、でも「ホンダ」。この年になり、生まれて初めてバイクのふたり乗りを経験、しかも男の腰に後ろから抱き付いて夜のホーチミンを走った。体を切る風が本当にここちよい。これならば、何をする目的もなく走り回りたくもなる。ベトナム人にとっては夕食後の最高の贅沢な時間だったのだ。

私たちは、ドンコイ通りの近くの「レストラン19」<19 Ngo Duc Ke ? District 1 HCM Cityという小奇麗なベトナム料理屋さんにいった。いつも夜はあまり食べないほうなので、注文の品はチー君にまかせベトナムの田舎料理を堪能した。これでふたり分しめて1000円だった。

それから私たちは、プラザホテルの中にあるVIP専用のカラオケクラブで簡単にお酒を飲み、ホテルに帰った


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