日本語に限らず、言語の持つ特徴として「分からない単語の読み方を前後の文章から類推する」ことが可能である。しかし、文学作品ならともかく、新聞やTV番組のテロップなどの、日常的に必要な情報を得るために読む文章では、このような類推は極力、避けたいものである(私が十分という漢字を使わないのは、これと同じ理由からである。HPという略語を単独で使わないのも、また同じ理由からである)。
私は「行く」は「行く、行った」と漢字と送り仮名で書き、その一方で「行う」は「おこなう、おこなった(1)」と平仮名だけで書くようにして、この二つを明確に区別している。「行う」を平仮名にする理由のひとつには「この単語が『平仮名で書いても他の意味に取られず、文章中に埋没してしまわないので、文章全体がスムーズに読める』という特徴を持つ」ことが挙げられる。
これに対し「いった」と「おこなった」を区別するため、それぞれ、漢字と送り仮名で「行った」と「行なった」と書く場合がある。私が書いた和文の総説(羽角, 2002)の中にも、2箇所ほど「行なった」と書かれている文章がある。ここで面白いのは、現在形が「行う(行い)」のままになっていることである(7箇所ある)。文章全体の整合性を考えれば、どちらかに送り仮名を統一すべきだとは思ったのだが、ゲラ刷りを校正した後もそのままになっているところをみると、どうもこれは雑誌の編集方針らしい(原稿では平仮名にしてある)。
文章を読み易く、また誤解のないように書くことは、忙しい現代人に自分の書いたものを読んでもらうための「配慮」である。「戦術」と言い換えてもいい。
羽角正人. 2002. 生き物の不思議(4). クロサンショウウオの繁殖行動―オスは競争相手がいない!? 遺伝 56(4): 14-17.
[脚注]
(1) 平仮名で「おこなう」と書くようになったのは、日本語で総説を書き始めた1994年頃からで、これは誰でも理解できる、平易な文章表現を心掛けるようになった時期とほぼ一致する。