理想のパートナー


共同研究をおこなうとき、パートナー、あるいはリーダーとなる研究者の理想像は、何だろう?

研究者」と言うからには、自分の専門分野で独自の研究計画を立案・遂行し、そこから得られたデータを解析して、英文の学術論文を国際専門誌に自力で載せる能力や資質を持っていることは、言わずもがなである。その能力や資質を持たない人、または持っていると錯覚している人を、心情的に研究者とは呼びたくない。まずは、このことが、パートナーの理想像を語る上での大前提として、認識されなければならない。

以上を踏まえた上で、共同研究に大切とされるものに言及すれば、それは、言わずと知れた「お金」ということになる。現代科学では、科学研究費(助成金)などの研究資金の獲得は、どんなに小さなプロジェクトでも必要不可欠で、私費を投じて細々と研究が継続できるほど、甘い世界ではないからである。しかし、幾ら研究資金が潤沢でも、リスペクト出来ないパートナー、またはリーダーが存在することに、共同研究の難しさというものがある。

これまで私が共同研究をおこなって来たパートナー、及びリーダーは、大きく4つのカテゴリーに分類される。私が理想とする人から順番に示すと、以下のようになる。

(i) 金は出すが、口は出さない。
(ii) 金は出さないが、口も出さない。
(iii) 金は出すが、口も出す。
(iv) 金は出さないが、口は出す。

「金は出すが、口も出す」人が「金は出さないが、口も出さない」人よりも順位が低いことに、ここでは注目していただきたい。「金は出すが、口も出す」人が研究者としての能力に長けていて、なおかつ尊敬・信頼できる存在であれば、そのような人のほうが一般的には理想のパートナーとして上位にランクされるのかもしれない。しかし、私の場合、関わった相手が悪かった。その人の専門分野は数学(統計学)で、生物学(特に生態学)の素養も、英語の文献を正確に読む能力も皆無だった(大学の生物同好会のノリで調査をしているような人で、私が驚かされたのは、かつての同好会の仲間数名を調査に同行させたことである)。それなのに、プロジェクトリーダーという地位をかさに、常に自分が優位に立とうと考えているのか、自分の専門外の研究分野にも口を出して来て、独り善がりの論理で引っ掻き回しては、自ら墓穴を掘ることの繰り返しであった(1)。

おまけに「金は出さないが、口は出す」という、最悪な一面を随所に出していた。その一方で「金は出すが、口は出さない」研究者は、どちらも専門が植物生態学ということもあって、動物の分野に余計な口を出してはいけないことをちゃんと心得ている、まさに理想のパートナーであった。

[脚注]
(1) 例えば、その人は、自分が共著者になっている私の投稿原稿を「論文の体裁が成っていない」と批判し、その理由として「関連するデータが表に纏(まと)められていない」と力説していた。しかし、その人が挙げたのは、今回のテーマと直接には関係せず、まったくもって載せる必要のないプロシーディングからのデータであった(そんなことも分からないのか?)。そのことをはっきりと示し、更に「私は、◯◯さんからご意見を賜りたくて、投稿原稿をお送りしたわけではありません。有尾両生類のこと、彼らを取り巻く世界的情勢は、私が一番よく知っています。もし建設的なご意見をいただけるのであれば、以上の点をご理解いただいた上で、ご意見を賜ることを望みます」と、穏便に返答した私のメールに対しても、非建設的な批判を繰り返す始末で、迷惑この上なかった(ダルハディン湿地プロジェクト会議での「学術誌に論文を投稿する前に、一度、見せるように」という、◯◯さんの要求に応えて送っただけの話。この件で懲りたので、それ以降、◯◯さんに投稿原稿は送っていない)。学術論文の内容に責任が取れない人を共著者に加えているだけでも大変なことなのに、研究の「け」の字も知らない人の勝手な思い込みと決めつけで、私の投稿原稿が理不尽に批判されるという屈辱は、あってはならないことである。しかも私が反論すると、いつも決まり文句のように「謙虚さが足りない」と非難して来る。学術論文を書く能力もないのに(その証拠に、ダルハディン湿地プロジェクト関係で[日本、モンゴル、ロシアのプロジェクト参加者すべてを含め]国際専門誌に学術論文を載せているのは、私だけである: e.g., Hasumi and Borkin, 2012; Hasumi et al., 2014)、謙虚さが足りないのは、どっちのほうなのか?「夜郎自大。煮ても焼いても食えない」という人物評は、まさに、その人のためにあるような言葉である
(ここで言う「学術論文の内容に責任が取れない人」とは、いわゆるギフトオーサーのこと。私が◯◯さんと共同研究をしていると勘違いしている人が多いようだが、プロジェクトリーダーとして国際専門誌に学術論文がひとつくらいないと格好がつかないので共著者に加えただけの話で[今、思えば、これは間違いだった。論文にラストオーサーとして名前があるばかりに、これが◯◯さん自身の研究であるとの主張を許すことになってしまった{実際は、私が責任著者}]、たとえ共著論文があったとしても、本当の意味での共同研究者でないことは、普通の研究者なら[自分で、ちゃんとした学術論文を書いている研究者なら]誰でも分かるだろう[◯◯さんが私の共同研究者だと勝手に思い込んで「共同研究者の批判をするのは、けしからん」と、私を中傷するネットストーカーの「しつこさ」には、ほとほと反吐が出る])。共同研究者の研究への貢献度を評価し、論文の共著者を決める(つまり、共著者に誰を加えて誰を加えないか、あるいは誰に謝辞するかを決める)のは、あくまで責任著者(corresponding author)の仕事である。そこのところを分かっていない人が、余りにも多い)。


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