研究者って、な〜に?


頭と手足が一緒の研究者は何から何まで自分自身でやらざるを得ず、たった一人で会社を切り盛りしているようなものだから、本当に、本当に大変だと思う。頭だけ、または手足だけを研究に注ぎ込めばよい人は、随分と楽をしているのではないだろうか?

さて、私たち研究者と称される人種には、なんらかの形で研究の成果を発表することが義務付けられている。多くの人が最も手っ取り早いと考えるのが、口頭発表やポスター発表などの学会講演、或いはシンポジウムでの講演かもしれない。大会のプロシーディング(講演要旨)を論文集と位置付けている学会もあるし(1)、シンポジウム講演は、うまくすれば本や冊子に化けることだって有り得る。そのため、研究者と呼ばれる人のなかには「学会講演に申し込んで、大会当日に発表しさえすれば、学術論文は書かなくともよい」と考えている人(考えていなくても、学術論文を書かないことに甘んじ、そのことで結果的に楽をしている人)が少なからず存在するように思う。

なるほど確かに一定の成果が上がれば、その研究に関する発表は学会講演などで簡単に済まし、すぐにでも次の研究に移りたいと願うのは無理もないことなのかもしれない。でも、それで研究が進展していると考えるのは大間違い。それは似て非なる研究者(えせ研究者)の夢物語・幻想に過ぎず、また大いなる自己満足に他ならない。ここはグッとこらえて、ある程度のデータが出揃ったら、それを査読付きの学術論文という形で発表する作業に取り掛かるべきである。その作業をしないで幾ら研究を続けても、研究成果を社会に還元(フィードバック)したことにはならないであろう。私たち研究者には、本当の意味でのアウトリーチ(outreach)活動が必要とされている(2)。

ただでさえ少ない生活費を削り、私費を投じてまで研究を続けてきた私に言わせれば、国公私立の大学・研究機関を問わず、そのような自己満足的な研究は明らかに税金の無駄遣いである。次の研究段階へは投稿論文が受理されてから進んでも遅くはないし、これら二つを並行しておこなうことも可能であろう。それが真に「研究をする」ということである。これが出来ない人には研究者を名乗って欲しくないし、早々に後進に道を譲ったほうが賢明かもしれない(大阪商人ではないが、研究者は学術論文を書いて「なんぼのもの」であり、学術論文は引用されてこそ「なんぼのもの」だと思う)。ちなみに、査読制度が整っていない雑誌に幾ら論文もどき(いわゆる、灰色の文献)を書いても、それが評価の対象とならないことは自明の理である。そこでは、著者の好き勝手な論理が、縦横無尽に展開されているだけであるのだから......(たとえ重要な知見が書いてあっても、雑誌の方針で引用することが出来ず、歯がゆい思いをしている文献の何と多いことか!!)

この文脈から研究者というものを一言で表現すると「単名でも学術論文が書ける能力のある人(特に生物学の分野では、国際専門誌の編集者や査読者を論理で説き伏せることのできる人)」ということになるのかもしれない。換言すれば「他人から書いてもらった共著論文を幾ら多く持っていても(それが第一著者の論文であっても)、独力で論文を生産しなければ、研究者とは認められませんよ」ということにもなる(3)。

従って、博士後期課程の大学院生への教育も、彼らが単名で学術論文が書けるように訓練することを目的とするわけだが、ここでは当然、指導する側の能力が厳しく問われることにもなる。それには指導する側がどのような訓練を積んできたかが重要で、たとえば論文を英語で書く訓練をしてこなかった人は、大学院生に対しても同じような指導しか出来ないと思われる。そして、そのような指導者は、もはやこれからの国際社会では通用しない。悲しいことに自然科学の研究分野によっては、そのような指導者が多いことも事実である。これに対し、私には「論文を英語で書く訓練を積んできた(当然のことながら、そこでは論理性も同時に養われるから「母国語である日本語の論文を書くのは、お手のもの(ただ書かないだけ)」という事実がある)」という自負があり、博士後期課程の大学院生を一人前の研究者に育てる自信もあるのだが、いかんせん、それを試す機会が未だもってない(4)。

最後に一言。誰でも出来る学会講演の数で、研究業績を稼いだ気になっている、そこのあなた......。そう、あなたです。自分は研究者としてのアクティビティーが高いと、何も知らない学生や大学院生、或いは一般の人々に思い込ませていませんか?

[脚注]
(1) 「査読が入っている」と主張するが「プロシーディングがリジェクト(掲載拒否)された」という話は聞いたことがないし、それを「論文だ」と主張するのであれば、学術論文を掲載する国際専門誌の必要性はないと思う。
(2) 溜まっていたデータをはかすため、あえて次の研究には移らないで論文書きに専念した時期がある。ところが、陰で他人の悪口を言うのを生き甲斐にしていた、かつての指導教員が「あの人は、もうやることがなくなってしまったんですよ」とか「あの人はアイデアが出尽くしてしまったんですよ」とか、周りに言い触らす始末で、随分と迷惑した覚えがある(「あの人」とは私のことを指し、次に「あんな人」と二段活用される。たとえば「あんな人に、何が出来ますか!!」という風に使われる)。
(3) 21世紀に入ってからは、第一著者の論文よりも「責任著者(corresponding author)」となった論文を重視する公募が増えたように思う。これは、採用する側の第一著者重視傾向への反発、またはグループリーダーとしての生き残り戦術だろうか?私の場合、学術論文は総じて第一著者であり、また責任著者でもある[1]。
(4) このように書くと「学生への教育をしたことがないのに、何を言ってるんだ」と反発する人がいる(1)。でも、私を同じ土俵に上げることをしないで、そのようなことを言うのは卑怯だと思う。それに、給料を貰っている大学の研究者が学生への教育をするのは当然の義務なのだから、学生への教育をしていることを学術論文を書かない理由にしないでもらいたい(2)。確固たる収入もなく、授業料を支払ってまで自腹で研究を続け、なおかつ学術論文を書いていた研究生の立場から見れば、給料を貰っている大学の研究者が学術論文を書かないのは大きな罪である(こう書くことで、自分勝手な思い込みで中傷する輩がいるようだが、私は決して「業績主義者」ではない[論文さえ書いていれば良い、とは考えていない]。「学生の教育に深く携わりたい」と心から願い、しっかりと生態学関連分野の授業準備をしていても、その機会をまったく与えてもらえない現実と闘っているのである[パワーポイントファイルを作成して、いつでも講義が出来るように準備している])。

[脚注の脚注]
(1) 私が博士後期課程の大学院生の頃、新潟大学にはティーチングアシスタントの制度がなかった。そのため履歴書には書けないが、指導教員が担当する授業や実験・実習の手伝いは、随分とやらされたものである。また、私に就いた卒研生の面倒をみることは言うに及ばず、研究室とは関係のない他分野の博士課程の大学院生のために、数編の学術論文(もちろん英文)を幾度となく直して、アクセプトまで持って行かせたものである(たとえば、林学分野では現在、名古屋大学教授のK. Y. 君)。
(2) 学術論文を書かない人は、授業や実験・実習などの全般的な教育は出来るのかもしれないが、研究指導などの学生一人一人への教育が出来るとは、とても思えない。自分に就いた学生との共著論文を書かず、学会や研究集会等々で発表するだけで済ましてしまう人の「私は学生への適切な研究指導が出来ている」という思い込みは周りにも迷惑で、残念ながら、それに惑わされる人々も少なくない(学術論文は卒論や修論とは性質の異なるものであり、ここでは学生が自分で学術論文を書く能力がなく、指導教員が代わりに書くケースを想定している)。何も知らない学生が、本当に可哀想である。

[補足]
[1] 文部省(当時)の科学研究費補助金(科研費)を獲得している課題研究で、研究責任者である教授を差し置いて、私が、関連する学術論文の責任著者になっていることに対して「自分で科研費も取っていない大学院生やポスドクが、学術論文の責任著者になることで、独立した研究者を目指そうとするのは可笑しい」といった、偏狭な経験則による誤解が在るようなので、それまでの経緯を書いておくことにする。私の指導教員だった教授が、文部省の科研費を連続して2回(3年間と2年間)にわたって獲得することになった研究の申請書の大部分は、実は、私が博士後期課程で遂行するために企画・立案し、教授に提出した研究計画書に基づいたものである(教授はカエルの精子形成の専門家なので、サンショウウオのことは本質的に分からないと思って良い)。確かに制度上は教授の名前で獲得した科研費ではあるが、某学会の年次大会に参加したとき、科研費の審査員のひとりの先生から直々に「羽角君のために、当てといてやったから」と言われたのをはっきりと憶えている(このことは、教授は知らない。教授も当たるとは考えておらず「なんで、当たったんだろう」と、不思議がっていたくらいである)。それにもかかわらず、かの教授は、私が幾ら必要な研究機材の購入を訴えても、科研費での購入を拒み、私自身、代替品の使用や自腹での購入を余儀なくされていた(研究補助者の勤務欄に盲判を何度も押させておいて、私に支払われるべき給料は、いったい何に使ったんだろうね?)。教授は、自分の名前で科研費が通ったことを理由に、私が書く学術論文に自分の名前を付ける必然性をいつも強弁していたが(本当は、謝辞だけで良いのだが......)、国際専門誌への投稿前に私が教授に提出した論文原稿のそれぞれに有意義な直しを加えることが出来ず(文章の「てにをは」しか直せないということ)、論文原稿の投稿に関しては「あんたは、自分で勝手にやって下さい」と言って、私への研究指導を放棄し、いつも私に丸投げの状態であった(だから、私が責任著者になっている)。


Publish or perish?
(論文を書きなさい。書かないのなら研究者の世界から足を洗いなさい)

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