8月は、秋


モンゴル・ダルハディン湿地の8月は、既に秋の様相を呈していた。

今回の調査は妥協に次ぐ妥協で、私たちサンショウウオ・チームは、2005年8月6日〜7日の2日間で予備調査を終え、8日〜17日の10日間を本調査に当てることになった。8月18日(木曜日)からは、調査隊長の○○さんの要求を泣く泣く飲んで、ダルハディン湿地の他の場所で、新たなキタサンショウウオの生息地を探す計画を立てざるを得なかったからである。そのため、ダルハディン湿地の第1調査地に残って定点観測を続けていた2〜3のチームが、8月11日(木曜日)の午前10時50分に他の調査地へ向けてジープで一斉に移動すると、この調査地にはサンショウウオ・チームのメンバーだけが残される形となった(1)。

8月14日(日曜日)の早朝6時、余りにも寒いので目が覚めてしまった。起床して何の気なしにシュラフに目をやると、両端の、テントに接している部分が凍っていた。外へ出てみると、草原一帯にが降りていた。外気温を測ってみると、氷点下3℃を示していた。道理で寒いわけだ。霜は15日の朝にも降りていた(2)。

調査期間中は雨降りの日が多く、晴れている日は数えるほどしかなかった。雨降りの日は、降りしきる雨が容赦なく体温を奪い、寒さが骨身に滲みた。土砂降りの雨が降ろうが、はたまた槍が降ろうが、研究の性質上、一日たりとも調査を休めないのが、サンショウウオ・チームの辛いところであった。太陽が顔を出すと日中の気温が一時的に25℃を超えることもあったが、太陽が雲に隠れて顔をのぞかさないときは、日中の気温が8℃〜9℃と一桁を示した。8月上旬〜中旬の日没時刻である午後10時頃、西の丘に太陽が沈むと大気が急に冷え込み、寒さが襲って来た。寒さをしのぐセーターやウインドブレーカーは、生活の必需品であった。

夏(?)の調査で、これほどまでに「太陽の有り難さ」を痛感した日々はない(3)。

[脚注]
(1) サンショウウオ・チームで実際に調査をおこなうメンバーは、私、ズラ、タイワン、フルッレ、オーグナの5人で、他にムーギーとトーメンバイヤルがいた。総勢、7人である。ムーギーは、サンショウウオ・チームの飯炊き専用にズラさんが連れて来た27歳の女性で「今度、モンゴル教育大学生物学部の博士課程に進学する」という話であった。トーメンバイヤルは、トラックのドライバーであった。
(2) 日本では、例年8月10日あたりをピークに気温が徐々に下がって行くのが一般的で、8月中旬といえば夏真っ盛りである。だが、この日のダルハディン湿地では、もう晩秋の気配が漂っていた。ここでは7月中旬〜下旬のほうが、むしろ暑いくらいである。ダルハディン湿地がサハリンの真ん中とほぼ同じ緯度に位置し、標高は1560m前後であることを考えれば、これもむべなるかな......。
(3) これに対し、7月15日〜25日にセレンゲ県シャーマルでおこなった調査は、しゃく熱地獄であった。シャーマルはウランバートルの北側、ロシアとの国境近くに位置する村である。この場所の標高が600m前後と低いこともあって、連日30℃を超える猛暑であった。周りには隠れるところがなく、炎天下での作業が続いて、メンバーの誰もがへばっていた。「シャーマルとダルハディンで、どちらの調査のほうが楽か?」と問われれば、間髪入れずに「ダルハディン」と答えるであろう。もう二度と、やりたくないと思う、それほど厳しい調査であった。


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