キャンプ地での食事


2004年7月17〜24日まで、モンゴル・ダルハディン湿地の第1調査地があるキャンプ地では、夕食の大部分を「羊肉の煮込み料理」が占めていた。調理には、鉄製の竈(かまど)が使用されていた。羊は、生きたもの丸ごと1頭を解体し、その日のうちに内臓肉と血のソーセージ、次の日からは普通の肉が供給された。これは「冷蔵設備のない野外で、腐れやすいものから調理する」という、まことに理にかなった順番であった。脂肪も捨てずに鍋の中に放り込むので、脂ギトギトの料理が出来上がり、かなりヘビーな食べ物であった(観ていると、20人分くらいの大鍋ひとつに対して、洗面器一杯の脂肪の固まりを放り込んでいた)

モンゴル人の学生が作る羊肉の煮込み料理には、野菜の他に長粒米(インディカ米)、春雨を太くしたようなもの、うどん、ペンネなどが代わる代わる入っていた。うどんは、小麦粉をこねて薄く伸ばし、包丁で切っただけのものであった。また、料理の味付けは、総じて塩だけであった(モンゴル岩塩を使っているようだが、確認はしていない)。これまで私が食したことのないようなものばかりで、全部が全部、見るからに食欲をそそるものであった。

私は、彼らが作る料理を普通に食べていたのだが、昨年の調査では日本人の口に合わなかったらしく、今年から日本人に対してだけ、カレー、肉じゃが、インスタントラーメンなどが供給されていた。これらの日本食を調理するのは「ズラ(Zulaa=Hongorzul Tsagaan)」の専売特許で、どうも「○○さんがズラに仕込んだ」という話であった(カレーも肉じゃがも当然、使うのは羊肉であった。ちなみに、モンゴルでは、キッコーマン醤油が流通している)

朝食は、だいたいが食パンにバター、ジャム、ヨーグルトなどをぬり、その上に缶詰めの魚、チーズ、サラミソーセージなどをのせて、各人各様で食べていた。それに「ツァイ」と呼ばれる、お茶が出されるのが定番であった。ツァイとは、薄めたミルクに、お茶の葉を入れて煮だし、塩で味を整えたような飲み物である。また、モンゴル人に魚を食べる習慣はないのだが、缶詰めの魚は好んで食べるようである。ちなみに、モンゴルでは、ロシア産の魚の缶詰めが流通している。

昼食に関しては、確かなことは分からない。それというのも、サンショウウオ・チームは、調査時間の確保のため、食パンと魚の缶詰め、ミネラルウオーター、それから時々はサラミソーセージやキュウリなどを携えて、第1調査地に入り込んでいたからである。そのため「お昼ご飯に、キャンプ地で何が供給されているのか?」は、知らなかった。その一端を垣間見ることが出来たのは、7月20日である。

その日はサンショウウオ・チームとしての調査活動が叶わなかったので、ひとりで午前9時30分から第1調査地に入り込み、キタサンショウウオが潜む倒木の写真撮影をおこなっていた。そのときは私ひとりだったせいもあり、お昼ご飯は持参しなかった。午後3時40分、雨が降る中をキャンプ地へと戻り、既にテントで休んでいた中川雅博さん(近畿大学)と話をしてから、午後4時に自分のテントへと引き揚げた。すると雨の中、昼食をモンゴルの学生がテントまで届けてくれた。ミルクコーヒー、お菓子(fresh pie)、ケチャップ味のスープおじや(羊肉入り)であった。本当に有り難かった。これで、冷えた身体が暖まった。ちなみに、その日の夕食は午後8時10分からであった。

食事は普通、炊事場の周りでするのだが、雨が降ると、炊事当番の学生3〜4名だけを残して、他の人はテントに引っ込んでしまう。初めの頃は「食事の支度が出来たら、雨の中でも、炊事場に各自が集まって食事をするのだろう」と考えていたのだが、モンゴル流では、その必要もないようであった。なにしろ至れり尽くせりのサービスで、食事を雨の中、炊事当番の学生がテントまで届けてくれるのであった。いわゆる「出前」である(雨の中、大変!!)

これは有り難かったが、カップに入った「小龍包(しょうろんぽう)入りのスープおじや」とか「韓国ラーメン」とか「カレーライス」とかを配達されても、肝心の箸やスプーンを持って来ないので、結局は「ゴアテックスの雨具(1)」を着てからテントの外に出て、雨の中を炊事場まで歩くことになるのであった。しかし、これも犬のように「おあずけ」状態で少し待っていれば、後で配達してくれることが分かった(どうして一緒に持って来ないんだろうねえ?)。それと、もうひとつ面白いのは、例えば午後8時10分にカップ一杯のスープだけ届けられて「今日の夕食は、これだけ?」と、物足りなく思っていると、20分後には夕食の続きのカレーライスとピクルスを出前してくれて、雨の中の配達に感謝する一方で「自分では、食事の量が調節できない」という難点があった。

炊事には、目の前を流れているシシヘデ川の水が使われていた。雨で川が増水した7月21日からは、ゴムボートに乗せた寸胴で対岸近くの川の水を汲みに行き、その水を使用していた。「そっちの水のほうが比較的、汚れが少ないから」という理由であった。この川の水は汚れで白く濁っているのだが、竈の火にかけて煮沸すると、なぜか紅茶色になるのであった(ミネラルウオーターが底をついてからは、この紅茶色の水が代役を務めていた)。更に川の水が汚れて来ると、炊事に使うのを諦め、10kmほど離れた湧き水のところまで、ロシアンジープで水を汲みに行っていた。

調査終了後の7月25日、ロシアンジープとトラックがムルン空港に到着してから14:40搭乗までの空き時間を利用して、モンゴル人のドライバーとモンゴル教育大学の教員10数名が、空港内の敷地でアルヒ(モンゴル・ウオッカ)を飲みながら、羊肉とジャガイモの蒸したものを食していた(その日の昼食のインスタントラーメンだけでは、どうも彼らには足りなかったようである)。このとき日本人は、完全に蚊帳(かや)の外であった。にもかかわらず、なぜか私だけが、ご馳走になってしまったのである。私が余りにも美味しそうにモンゴル料理を食べているのを、彼らは、ずっと現地で観ていたに違いない。このとき、私の脳裏には、以下の諺(ことわざ)が浮かんでいた。

「郷に入りては、郷に従え」

[脚注]
(1) 日本隊は、私を含めた大半のメンバーが「ゴアテックスの雨具」を所有していたのだが、モンゴル隊の教員にも学生にも「100円ショップで売られているような雨具」しかなく、見ていて悲しくなる光景であった。その悲しさを口に出すことも出来ず、そんな自分に対して、また悲しみが募るのであった。彼らには、日本の研究者が湿原で普通に使っている胴長もない。こういった窮状を見るに見兼ねた私は「ダルハディン湿地の調査に必要な道具を購入するために、なんとかしてファンドを獲得してあげよう」と奮闘してみたのだが、某ファンドの申請書を審査する側の理解が得られず、それも徒労に終わってしまった。


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