「石上露子を語る集い」代表 芝昇一氏 |
重要文化財・旧杉山家住宅 |
(2004年6月13日講演録から引用) 富田林は酒造りと、河内木綿織物を近江の国に販売し、多いときには、木綿三万反余りが送られていたが、井伊直弼の暗殺事件後は、彦根藩は他藩の者の出入りが禁止となった。富田林は忽ち困り、彦根藩に木綿問屋三軒が金子三百両と、木綿五反を送り献上して出入りの鑑札を得た。杉山家に於いては、石上露子の父 杉山団郎(団郎正美、幼名団之助)が父・杉山長一郎、母・津屋(ツヤ)の長男として安政四年十一月二十八日に生まれる。当時の杉山家の家族構成は、祖母・未祢(ミネ)、父・長一郎(入婿)、母・津屋、異父姉・飛路(ヒロ、嘉永四年生まれ)の四人であった。安政四年の杉山団郎の生まれた前後の約十年間は凶事のみならず変化の時代でもあった。河内の国に於いても、旱魃と水害が多く、農家は非常に苦しんだ。 安政四年に郡中取締 倹約令や取締令の多くは、個別領主から村単位あるいは組合村々に対して出されたが、石川・錦部両郡に於いては、九月、村々によって「郡中取締書」が作成された。幕末期、石川郡の村四十八カ村、錦部郡は五十カ村であった。(一村とは今の小字の部落程) その領主支配はきわめて錯綜し、一カ村が複数の領主によって支配される入組支配も多く見られた。このような所領配置のもとでは、郡の行政単位としての機能を持たず、単なる地理上の名称でしかないのが普通であった。近世後期の石川・錦部両郡に於いては、一カ村あるいは組合村々の申し合わせでは効果が期待できない事柄に関して、所領毎に惣代が出て相談を行い、領主支配を異にする村々の間で申し合わせが行われた。 「河内の一反、大和の三反」と云われた。河内の田畑は地質が良かった。領主は河内を欲しがったようだ。郡中取締も郡単位で取り決められたのである。議定の中心は、高騰しつつある諸職人の賃金を広域的に規制しようとするものであった。 一.大工の賃銀は、一人一日に付き銀二匁六分と定められていたが、安政六年から銀四分増しとなり、銀三匁となっている。これは大工が京都内裏の
造営に動員されて入用がかさんだためであるが、内裏造営という稀にしかない事を理由に賃銀が上積みされては、諸職人の賃銀にも影響するので、今後は従来のどおり銀二匁六分とする。賃銀に異議申し立て、又は熱心に働かない者は他の大工を雇う。 以上のとおり、賃銀の引き下げその他の規制について取り決めが行われ、協議に加わって連印した惣代から村々に写書が回され、「小前末々迄申聞、急度相守可申」ものとされた。(富田林市史第二巻) 石原代官所倹約取締 幕末期に、村ごとあるいは組合村々において数多く試みられた倹約取締りのうち、幕府代官石原清一郎の支配所であった石川郡富田林・貴志・板持などの村々のそれを見ることにしたい。同代官支配下の村々において、「質素倹約取締箇条書」が取りまとめられたのは、文久元年(1861年)二月のことであった。打ち続く凶作と米価高騰に対処するため、向後五年間の期限付きの諸事倹約の申合せであった。その内容は極めて多岐にわたっていた。 一.年貢、村人用は期限通り納入 安政六年には七月から九月にかけコレラが大流行するなか、八月中旬、大風雨、洪水によって綿作が被害を受け、秋には稲作が虫付になった。翌年万延元年も、まず裏作の麦作、菜種作が「古今稀成大凶作」であった。ことに麦は「百姓第一之夫食」であり、価格も一石当り銀百六十目余りまで高騰したため、その凶作は農民生活に大きな打撃を与えた。五月以降は長雨による冷夏の日々が続いて、稲作は虫付枯穂・枯葉がおびただしく,綿作も実入りが薄く、ともに大凶作となった。
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(注記) 上記内容は「石上露子を語る集い」芝昇一代表が2004年6月13日(日)午後に富田林市立中央公民館講座室で開催された同会6月例会の席上で講演された講演録です。講演内容は「富田林市史」等の資料などから引用・ご朗読されたものです。同会会報6月号「小板橋」(第五十一号)に収録されました文章をそのまま転載させて頂きました。(2004年7月11日、歴史散歩、同会会員・「富田林寺内町の探訪」管理人) |
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