嘉永・安政年間の 富田林と杉山家

「石上露子を語る集い」代表 芝昇一氏
田守邸外観(堺筋)
田守家住宅

(2004年7月11日講演録から引用)

父団郎と露子(三)

安政の大獄

団郎が生まれたのが安政四年で安政の大獄は安政六年第十三代将軍家定の時代であり、安政五年から翌年にかけて井伊直弼になされた尊王攘夷派に対する大弾圧である。

安政四年(1857年10月)にアメリカ総領事ハリスが上府して通商貿易の必要を説いたので、幕府はハリスと日米修交通商条約の審議を進め、1858年正月これを議了したが、条約の調印には勅許(註1)を仰ぐことになり、老中堀田正睦を上京させた。将軍家定は凡庚の上多病で、この重大時局に処する人物ではなかったから、この前後から将軍の継嗣問題が表面化してきた。越前藩主松平慶永は、英明の聞こえ高い一橋慶喜(前水戸藩主徳川斉昭の七男)を継嗣にしようとして、幕閣要路や諸侯の間に説いて、老中阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信らの賛同を得た。

これに対して、溜間詰(たまりまづめ、註2)の重鎮である彦根藩主井伊直弼は、血統の上から紀州藩主徳川慶福を推し、大奥の支持を得て、隠然たる勢力を持っていた。(註3)
一橋派も南紀派も互いに京都に働きかけたので、条約勅許問題と絡みあって事態はますます紛糾し、条約調印の勅許は得られず、堀田正睦の上京も失敗に終わり、同年4月に直弼が大老になった。直弼は6月に勅許を待たず無断で条約に調印し、ついで慶福を将軍の継嗣とすることを公表した。斉昭はその遺勅を責めたので直弼は斉昭に謹慎、尾州藩主徳川慶恕と慶永に隠居・謹慎を命じ、水戸藩主徳川慶篤と慶喜の登城を停止した。

一方、孝明天皇は幕府の無断調印に激怒し、三家・大老の中から一人上京するように命じた。直弼は、老中中間部詮勝を上京させて、条約調印の弁解をさせたが、一橋派の京都入説があって成功せず、8月には水戸藩に密勅が下り、幕府の立場は不利となった。ここに直弼は京都に派遣していた謀臣長野義言の意見を用いて反対派を弾圧することに決した。九月、近藤茂左衛門、梅田雲浜の逮捕を手始めに、多くの志士や諸太夫を捕らえて江戸に護送し、同時に江戸でも反対派の逮捕が行われた。翌安政六年にかけて、多数の宮公卿・諸侯(註4)・有司(註5)・志士・浪士たちが処罰された。

朝廷側では、青連院宮が隠居・永蟄居(ちっきょ)、鷹司政通・鷹司輔煕・近衛忠煕・三条実万(さねつむ)が辞官・落飾(註6)、或いは隠居・謹慎に処せられた。諸侯では、徳川斉昭が永蟄居・徳川慶篤が差控、一橋慶喜が隠居・謹慎、山内豊信が謹慎に処せられた。有司では、岩瀬忠震・永井尚志・川路聖謨(としあきら)を初めとして処罰されたものが多い。又、切腹・死罰・獄門の極刑に処せられたものは,鵜飼吉左衛門・鵜飼幸吉・橋本左内・頼三樹三郎・吉田松陰ら8名にのぼり、これに連座したものは100余人、その範囲が広く、処罰の厳重なことは古今未曾有と云われた。この過酷な処置は、決死の志士達を立たせることとなった。

(註1)勅許  天子の許可勅命による免許 
(註2)溜間詰 江戸幕府の職名。親藩又は譜大名の中から一定の人員を留の間に出仕させ、老中の共に諸大名に参画させた。
(註3)一橋家 徳川家の分家。三卿の一。吉宗の第4子宗伊に江戸の一橋門内に邸宅を賜って一橋家という。禄高十万石。
(註4)諸侯  江戸時代の大名
(註5)有司  役人
(註6)落飾  王侯貴族の出家

桜田門外の変

安政七年(1860年)三月三日江戸城桜田門外で水戸薩摩の浪士が大老井伊直弼を殺害した事件。

大老井伊直弼は安政の大獄を断行して反対派の一掃に努め、ことに安政六年十二月、前年に水戸藩に降下した勅諚(註1)の返納を迫るなど、幕府の水戸藩に対する弾圧を強化したので、同藩の志士は脱藩して江戸で薩摩藩の同志と画策した。かねて両藩の志士は挙兵して幕府の奸吏を除く計画を立てていたが、ここにおいて安政七年一月、除奸の計画は一転して大老襲撃の計画へと進んだ。おりから計画を推進していた、高橋多一郎・金子孫二郎が水戸藩から逮捕されようとするまで形勢が切迫したので、弐月下旬高橋は水戸藩を脱藩出府、ついで京都に上がって薩摩藩有志の東上を待ち、金子も江戸に脱出し、大老襲撃を指揮することになった。

三月一日金子は同志と大老襲撃の綿密な計画を立て、期日は三月三日上巳(じょうし)(註2)の嘉節とし、場所は桜田門外と定め、同志は翌二日品川の酒楼で決別の宴を開いた。三日の早朝、水戸藩浪士十七人に薩摩の有村次左衛門を加えた刺客十八人は芝愛宕山に集合したのち、降りしきる雪の中を桜田門外に至り、登城する大老を迎え討って目的を達成した。十八人のうち、即死一人、重傷のため自刃した者四人、その他自首又は捕縛後斬罪となった者十一人、難を免れたのは増子金八・海後磋磯之助の二人だけであった。一方、大老側では、死者八人、負傷者十余人を出した。刺客が懐中にしていた「斬奸趣意書」によれば、この事件は幕府を倒すためではなく、直弼を除いて幕府の政治を正道に戻すことであった。

(註1)勅諚 天皇の命令 勅命
(註2)上巳 五節句の一つ、桃の節句

富田林の影響

この桜田門外の変は、富田林の木綿商人に尠からざる影響を及ぼした。綿は、近世の河内国において代表的な産物のひとつであった。各農家で栽培された綿は、一般には農家の内職として手紡ぎ・手織りによって木綿布に加工された。こうして産出された木綿布は河内木綿と総称され、嘉永六年刊行の「守貞漫稿」に「今世河州を木綿の第一とし、又産すること甚だ多し、京坂の綿服には河内もめんを専用とす」というほどに広くその名が知られた。

富田林木綿問屋の商いは、販路は主として近江国で大阪市場ではなかったところに特徴がある。近江国のほかには京都・伏見・若狭などにも若干販売されていたようである。販売品種は、厚地の白木綿が圧倒的に多く、染色糸で縞模様を織り込んだ縞木綿も見られた。

黒山屋三郎兵衛の文久二年の「万嶋手控帳」(富田林田守家文書)に貼り付けられた布片は、格子縞より縦縞の模様のほうがやや多いが、いずれも素朴で美しい色調を漂わせている。貴志屋藤兵衛の文化六年以降の「仕切控日記」或いは「木綿仕切帳」が残されているが、それらによると、近江国を中心とする年間販売量は、文化年間の一万反台が文政後半から天保年間にかけて、二万反台で推移するようになり、弘化年間以降では三万反台へと伸びている。(1804年〜1820年〜1844年〜1847年)

このような木綿荷物の輸送は、馬方により堺を経て大阪まで陸送された後、伏見に送られた。しかし、近江国の市場環境は当時の政局の不安定を反映して決して安定したものではなかった。安政七年三月、彦根藩主で大老の井伊直弼が桜田門外で暗殺された時には、その後彦根藩は過敏な程の厳戒体制をとり、他国他領の者が城下に立ち入ることを禁止した。貴志屋藤兵衛は、「帳面類風呂敷包背負、雪駄など履き、所のものに似せ」ひそかに商いを続けたと手稿に記している。そして慶応二年に至り、黒山屋三郎兵衛・佐渡屋徳次郎・貴志屋藤兵衛の木綿問屋三軒は、彦根藩に金百両と白木綿五反を献上して、城下における木綿商いの鑑札を得ることに成功している。

「大和の三反、河内の一反」といわれたが、僻地の反当りの収益が河内国では、大和国の三反にもなった。このような耕地の収利性が非常に高かったのは、大阪周辺の農村では綿作などの特用農産物の栽培が可能であったからです。明治前期の河内国の実綿生産量は、11,568斤で全国総生産量の12.2%を生産し、全国第一位である。第二位は摂津国で7,686斤で大阪府の実綿生産量は、全国生産量の20%を占めていた。菜種は、明治十年の統計によると、河内国の生産量は71,175石で、全国総生産量の6.1%を占め、全国第三位である。反当り生産量を金銭で換算した場合、菜種は、実綿の三分の一程度であったから、綿作の方がはるかに収益が大きかったと思われる。

(大阪百年史・富田林市史第2巻より)                                       

(注記)
上記内容は「石上露子を語る集い」芝昇一代表が2004年7月11日(日)午後に富田林市立中央公民館講座室で開催された同会7月例会の席上で講演された講演録です。講演内容は「富田林市史」等の資料などから引用・ご朗読されたものです。同会会報月号「小板橋」(第五十二号)に収録されました文章をそのまま転載させて頂きました。(2004年8月7日、歴史散歩、同会会員・「富田林寺内町の探訪」管理人)



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