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(1835)天保6年 父(加賀藩士)正之・勝左衛門と母(小幡藩士の娘)の長男として12月21日誕生。
幼名不明・通称雄次郎 後に棣と改名する
。諱は正忠
(1848)嘉永元年 父没後馬廻り役となる 扶持五百石
(1854)安政元年 ペリーが軍艦を率いて相模湾へ再来時、幕命で芝増上寺を衛る
(1863)文久3年 江戸で航海術を学ぶ・能登軍艦所の壮猶館に航海学科が創立・航海学生棟取となる・藩が軍艦方役所を新設・長崎から汽船を購入、軍艦棟取になる
以隆軍艦奉行に従事する
(1868)明治元年 内用(軍備に関する機構)に就く。
京都で執政局議事・朝官に列し刑法官権判事・江戸府権判事兼任・後に東下し鎮台府=旧幕府の奉行所業務を引き継ぐ。
政変後、東幸御用掛となる家禄千五百石を受ける。
(1869)明治2年 藩政改革・金沢藩権大参事・藩知事前田公の家扶となり経理会計等に従事する
(1871)明治4年 海外視察の命を受け4月4日横浜港出港・25日サンフランシスコ・6月5日米国発
英・仏・スエーデン・伊・オーストリー・プロシア・数国を経て12月9日清国香港に至り帰路上海・下旬に長崎に達し海路東京着・朝廷に視察報告する。
(1875)明治8年 旧藩主前田公の依嘱で再び家事に参画する
 (1882)明治15年 病の為辞任し、以後将棋の研究・謡曲の造詣を深める。
(1892)明治25年 前田公の依嘱で「維新前後に関係スル者ヲ検索蒐集スルノ事」に従事する
本郷邸内に移住し、連日編纂局に入り従事する。
岡田 棣編纂「知行現石人員帳」 
(1897)明治30年 中年以来生じたあごの瘤<コブ>が膨大し、リューマチも患い又左胸右中肉ー(肺癌か)を発症し、病臥累月し、8月17日没す。
前田公は積年の労を思い特別に金百五十円を賻して葬儀に資す。
享年62歳 墓所は本郷駒込長元寺(日蓮宗)
性格は温和で喜怒を表さず寡黙で善く理非を解く。人の悪口を言わず人と争うような事は無い。多勢から愛慕推敬され、訃報を聞き誰もが悼惜せずにはいられないであろう。 
古式の和算書を研究し・西洋の数学にも精通していたことから前田公の家扶<家務・会計>に従事する。第十二国立銀行<後の北陸銀行>創立に当っては指画設置に尽力した。
普段から読書にふけり、特に将棋書の蒐集本は三百種余り(その中百十七種は板本・それ以外は手で写したもである。)遠方各地(伊勢・尾張・大阪・金沢等)から購い求め、精選された将棋書は稀少価値がある。生前から家人に「我が死後は所蔵の将棋書は全て図書館に献本する事」と言っていた。
「乾州」と号し「楼四望」世間では「碧楼」と云われた。読書界では「養蠧書屋」<ヨウトショヤ=虫喰書物という意味>随筆は数十巻あり、「養蠧書屋叢書」と名付けた。又、「消夏堂」主人の号がある。専ら碁・将棋用に用いる。温敬公<藩主前田斎泰>の書「棋局消長夏の語」から付ける 
家族は藩士脇田某の娘・節と結婚、ニ男三女あり。長男丈太郎は家を嗣ぐ、次男徳次は別に家を持つ。長女の友は小木貞正(前田公の家扶)に嫁ぐ・次女の三<サン>は櫻井錠ニ(理学博士)に嫁ぐ三女の貞は池田菊苗(理学博士)に嫁ぐ。 
貞正と親交があったので生前の履歴を蒐集して追悼文とする。
  明治三十二年七月  辱知 陸 義猶   拝撰 「乾州岡田君行状」より抜粋


岡田 棣(なろう)略歴  参考資料「乾州岡田君行状」 岡田 棣 35歳の写真へ