作成:2016/5 更新:2017/4
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 鎌倉市 KK-08
写真1
朝夷奈切通 鎌倉市十二所側入口
案内板がある また、切通右側に鎌倉青年団による説明碑(写真3参照)がある
写真2
昭和16年に建てられた朝夷奈切通の説明碑
内容は右の文(鎌倉市十二所側の石碑)を参照。
写真3 鎌倉市十二所側の状況
写真4 切通最高点(峠)付近の状況
切通の左側に境界杭の石柱がある 前方が横浜市で手前が神奈川県を示す表記がある
この付近は大切通(おおきりどおし)と呼ばれる
写真5
切通最高点(峠)を越えた横浜市金沢区側の坂で、振り返って最高点側を望む
この付近は崩壊した礫がゴロゴロしている
写真6
横浜市金沢区側で背後が鎌倉方向 深い切土箇所
この付近は小切通(こきりどおし)と呼ばれる
写真7
横浜市金沢区側 案内板近くの石造物群
前方を横浜横須賀道路の高架が横断している
撮影:2016/5
国指定史跡 朝夷奈切通 昭和44年6月5日指定
朝夷奈切通は、いわゆる鎌倉七口の一つに数えられる切通で、横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点でした。
『吾妻鏡』には仁治2年(1241)に、幕府執権であった北條泰時の指揮のもと、六浦道の工事が行われた記録があり、これが造られた時期と考えられています。
その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造を良く示しており、周辺に残るやぐら(鎌倉時代の墓所)群・切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、中世都市の周縁部の雰囲気を良好に伝えています。
平成21年3月
鎌倉市教育委員会
朝夷奈切通
鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦*1ヘ通ズル要衝ニ當リ大切通小切通*2ノ二ツアリ土俗に朝夷奈三郎義秀一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラルルモ東鑑ニ仁治元年(皇紀1900)11月鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ翌2年4月經營ノ事始アリテ執権北條泰時其所ニ監臨シ諸人群集シ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ此切通ハ即チ其當時ニ於テ開通セシモノト思料セラル
昭和16年三月建 鎌倉市青年團
*1 六浦(むつうら):天然の良港であり、当時は鎌倉の外港として物流の拠点であった。現在は横浜市金沢区六浦で京浜急行逗子線の「六浦」駅がある。
*2 大切通小切通(おおきりどうし こきりどうし):切土が深く、両側が直に切り立っているような個所の呼び名で、切通の峠(鎌倉市と横浜市市境)付近と横浜市側の深い切土部を指す(写真4,5参照)。
(石碑は縦書き 年月を表す漢数字をアラビア数字に変換)
国指定 朝夷奈切通(昭和44年6月5日指定)
鎌倉幕府は、仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、路改修を議定、翌年4月から工事にかかりました。執権北條泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたといいます。
当時の六浦は、塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港でした。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。
また、鎌倉防衛上必要な防禦施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものが残されています。
鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の艮(うしとら)(鬼門)の守りとして祀られたと伝えられています。
鎌倉七口の中、最も高く険阻な道です。
社団法人 横浜国際観光協会
横浜市教育委員会文化財課
平成2年3月
<資料1 p66より>
山崖も到るところ崩壞して山骨露出し、緑滴る鎌倉山の風致を害すること夥しいものがあった。殊に往昔七切通を以て世に聞こえた鎌倉の關門は、概ね崩壞して人馬を通ぜざるものあるに至り、為に町外との聯絡上及救護品の輸送等に多大の不便を來したのであつた。
<資料1 p109より>
極楽寺坂は斷崖崩落して交通杜絶し、荷載馬車一台(馬もろ共)小兒一名旅人一名埋没慘死した。他の六切通も山崖の崩懷土石の墜落によって何れも交通を遮斷されたが、大佛坂、假粧坂、名越坂、龜ヶ谷坂は比較的被害軽微であったため速に復舊し、巨福呂坂極樂寺坂次いで舊に復したが、朝夷奈切通のみは閑却され最も遲く修理を加えられて僅に人跡を通ずるにすぎない。
震災当時は自動車*1の通れる県道として開通(資料2)していましたが、震災で至るところで崩壊し、七切通*2の中で復旧が一番遅れました。昭和31年(1956)に切通を迂回する県道金沢鎌倉線が開通することによって朝夷奈切通の道路としての役割は低下しました。また、住宅や霊園開発などからも逃れることができた結果、往時の姿を比較的良くとどめた古道として残されました。
朝夷奈切通は鎌倉の地勢と外部との連絡状況を示す貴重な史跡であるとして、昭和44年(1969)に国の史跡に指定されました。
鎌倉市十二所側と横浜市金沢区側の案内板の区間は約1kmであり、ハイキングコースとして利用されています。横浜市側から鎌倉市側に下る坂道は岩盤が露出して湧水で濡れています。下り方向はいかにも滑りやすそう(写真3参照)で、抜き足差し足と言ったところですが、思いのほか滑りません。路面となる岩は表面のざらざらした凝灰岩です。
*1 自動車:自動車が急速に普及したのは、関東大震災後であり、昭和に入って加速度的に増加しました。関東大震災では鉄道や路面電車が被害を受けて使用できない中で、震災直後の震災復興に自動車の便利性が強く認識され、自動車が急速に増加した要因の1つになりました。当時、朝夷奈切通は自動車の通れる県道として開通していたようですが、狭隘で傾斜のあるこの峠を自動車が越えたのでしょうか。自動車の無い時代でも馬車や荷車は容易でなかったと思われ、登りがきつい区間は荷を人力や荷駄として運搬したのかも知れません。切通しには、馬の背に荷を載せた荷駄が一番似合うような気がします。
*2 七切通:鎌倉への出入り口である切通のうち重要な7つを指し、七口とも呼ばれます。(朝夷奈切通・亀ヶ谷坂・化粧坂切通・極楽寺坂切通・巨福呂坂切通・大仏切通・名越切通)
【参考】
国指定の史跡としての正式名称は「朝夷奈切通」ですが、古くから「朝比奈切通」ともされていました。朝夷奈切通の横浜側は金沢区朝比奈町ですが、この朝比奈という町名は、昭和11年に久良岐郡六浦荘村が横浜市に編入される際、同村の字峠から新設した町で「朝比奈切通」に因んで名付けられました。
参考資料
資料1 鎌倉町役場(1930)鎌倉震災誌,319p
資料2 井上公夫(2013)関東大震災と土砂災害,古今書院,225p
横浜市ホームページ 横浜市教育委員会 国指定史跡「朝夷奈切通(あさいなきりどおし)」トップページ>文化財・埋蔵文化財>世界遺産>朝夷奈切通
横浜市ホームページ 歴史息づく横浜金沢 金沢区の地名と由来
奥井正俊(1988)大正・昭和戦前期における自動車の普及過程 新地理36-3 p30-38