関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 海老名市 EB-01
写真1
増全寺 門柱から境内を望む 震災横死者之霊碑は前方の大木付近にある
写真2
震災横死者之霊碑全景 後方手前の建物は庫裏
写真3 震災横死者之霊碑
撮影:2015/7
< 増全寺ホームページ 増全寺の歴史 http://www.zouzenji.com/01_page.html より >
武州滝山大善寺末寺で、本尊は弥陀三尊、阿弥陀如来は江戸期のもので、慈覚大師作と伝えられる。開山は因公学円上人で、嘉応元年7月15日寂(1169)、開基は鎌倉末期の領主・海老名源八衛広綱とされ、法名の無量院殿龍池増全大居士から山院寺号が付けられ、龍池山無量院増全寺といいます。
境内入口には岩船地蔵享保4年(1719)があり、飢餓に苦しむ村民の延命地蔵として祀られた。福禄寿は、その隣りに座し、人々の長寿と幸福をつかさどる福神です。その他には、永代供養者を祀る清浄霊廟、動物の霊を祀る動物供養塚があります。
碑の正面中央には、大正拾貮年九月一日震災横死者之靈とあり、その両側に氏名年齢順として28人の氏名が刻まれています。氏名末尾には男には君が付加されていますが、女には子が付加されているのでしょうか?
碑の背面には、施主 玉城莊全とあり、三十四世と三十五世であった当時の住職が建立したことが分かります。なお、当時の住職が三十四世と三十五世の二つの世を務めたかは分かりませんが、「当山歴代先師尊霊」という墓誌によると、三十四世 ……莊全和尚、三十五世 同右とあります。
現在の海老名市は、明治の町村制施行時の海老名村と有馬村がもとになっています。震災当時、増全寺のある中新田は海老名村に属していました。
海老名村の被害は、全壊住宅461戸(このうち5戸焼失)、半壊住宅290戸、死者33人(滞在者2人を除く)でした。(海老名市史 8 通史編 平成21年 より)
震災横死者之霊碑には、28名の犠牲者名があり、海老名村の犠牲者数の55%程度になります。海老名村は、上今泉、下今泉、柏ヶ谷、望地、国分、上郷、河原口、中新田、大谷から成り、碑の犠牲者は檀家信徒あるいは地区で区切られた犠牲者なのかは判然としません。
犠牲者には大島と今福の姓が目立ちますが、両家は中新田の名家と言われています。震災横死者之霊碑が中新田の犠牲者に限られた碑であるなら、中新田は大きな人的被害を被っていることになります。