関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 海老名市 EB-03
写真1
大島記念公園遠望 左右方向の道路が県道46号線で、正面の緑地が大島記念公園
写真2
大島記念公園の表示された石柱の奥に震災記念碑がある
写真3
震災記念碑を正面から望む 石材は花崗岩で白っぽい
写真4
右側から側面を望む 鳥居の石柱が使用されているようである
写真5
大島記念公園と大島家の由来が刻まれた石碑
撮影:2015/7
< 公園内の由来碑より >
大島記念公園
この大島記念公園はこの地に住んでおられた大島節子さんが大島家の屋敷であったこの地を記念公園として残したいとの故大島正和氏のご遺志により土地を寄贈され海老名市の公園として整備したものです
昭和六十二年三月吉日
海老名市
また、大島家の由来として、「相模大島家初代大島豊後守正時は、清和源氏の流れをくむ房州里見氏の出で、永享十年(西暦千四百三十八年)永享の乱後、伯父にあたる相模の豪族海老名氏の要請を受け領域をめぐる争いに加勢のため相模にきてこの地に居を構えました」とあり、この地は500余年に亘った屋敷地であることが記されています。
正面
震災記念碑の由来については不明です。
『海老名市10 別冊ダイジェスト えびな歴史ものがたり(下)』によると、「海老名の近代を代表する名家を二つ挙げるとしたら、市内中新田の大島(おおしま)家と今福(いまふく)家であろう。両家は同じ村内にあって、政治的には競い合う中であった。」と記されており、明治期には大島正義が養蚕家・自由民権運動家として活躍し、次の大島正徳(哲学者・教育者)の代に、関東大震災が発生しました。なお、正義の弟、正健(まさたけ)は札幌農学校でクラーク博士に学び、同学の内村鑑三や新渡戸稲造とともに活躍しています。「青年よ大志を抱け」という有名なクラーク博士の言葉を主唱したのは正健であったといわれています。
後に、海老名市は大島家から土地の寄贈を受け、今福家から土地と建物の寄贈を受けて、現在はそれぞれ大島記念公園、今福薬医門公園として市民に利用されています。