作成:2016/4 更新:2016/5
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 秦野市 HN-01
写真1
震災供養塔は石垣に囲まれた広場の一角にある
道路の角に「命徳寺参道」と記された石柱がある
写真2 震災殃死者供養塔は正面の植え込みの中にある
敷地の大部分は広場になっており、片隅には子供用の遊具もある
写真3 震災殃死者供養塔
写真4
命徳寺の参道と本堂
震災殃死者供養塔は写真左前方の裏山に相当する位置にある
撮影:2016/4
震災殃死者供養塔は命徳寺の裏山に相当する広場の一角にあります。命徳寺の住職のお話によると、この広場は命徳寺の敷地であり、以前は鬼子母神を祀るお堂が建てられていたそうです。その後、この鬼子母神堂は本堂に通じる参道の右側に移転され、現在はその空き地が子供用遊具のある広場になっています。ここを訪れたときは小学生がサッカーをして遊んでいました。
資料1~資料3ではこの広場が児童公園になっていますが、資料4によれば、「今は公園のようだが本町地区の人たちは古くからここを鬼子母神さんと呼ぶ」とあり、いわゆる児童福祉法や市の条例で定められたような児童公園ではないようです。
震災殃死者供養塔は石で囲った台座の上に設置されており、石碑そのものだけでも高さ262cm幅128cm厚さ16.5cmあります。石碑としては大型の立派なものです。
背面には、1町5ヶ村の震災殃死者の氏名が刻まれており、その多さに驚くとともに、関東大震災の被害の大きさと広がりを改めて感じます。
供養塔の殃死者名は町村毎に刻まれていますが、その人数を挙げると、
の計224名になります。
供養塔は1町5ヶ村の殃死者を対象としており、当時はいずれの町村も中郡に属していました。
村名に「秦野」が無いのは大根村だけですが、一方、当時足柄上郡に属していた上秦野村の名はありません。
これらの町村は、そもそも1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、いくつかの村が合併して生まれた町村であり、これらの町村を統括するような共同体があったわけではないようです。そう考えるなら、1町5ヶ村とは秦野盆地を中心にその周辺に存在する中郡の町村に相当し、1町5ヶ村に大根村が入り上秦野村が入らなくても大きな違和感はありません。
なお、その後上秦野村は西秦野村と合併して中郡に帰属しました。結局のところ、一部の分離があるものの上秦野村を含むめて1町6ヶ村がまとまって現在の秦野市が生まれており、それには秦野盆地を中心としたその周辺という地形的な要素が大きく働いています。旧村域は、例えば北秦野村は北地区あるいは西秦野村は西地区のように現在の秦野市の地域区分として名残を残しています。
震災直後にまとめられた死者行方不明者数と当供養塔の殃死者数に違い(特に秦野町や西秦野村)があることが、資料2や資料3で指摘されており、資料2では「被災後の調査の難しさが分かるような気がします」と感想が述べられています。また、資料3では分からないとしながらも「慰霊碑の死者は他所で暮らしていて犠牲になりその後里帰りしてきた人々を含むと考えるのがよいかもしれない」と記されています。
表 町村別死者数
町村名 | 資料4 | 供養塔 |
---|---|---|
秦野町 | 21 | 60 |
東秦野村 | 31 | 29 |
北秦野村 | 16 | 16 |
西秦野村 | 17 | 29 |
南秦野村 | 27 | 28 |
大根村(おおねむら) | 52 | 62 |
関東大震災の被害を市区町村単位に集計し、被災地のほぼ全域にわたって網羅した資料に震災予防調査会報告書による被害統計と内務省社会局がまとめた大正震災誌の中の市町村別被害統計があり、これに検討を加えたものが「付表 関東地震の死者数データベース」として資料4に示されています。上表の資料4とはこのデータベースによる死者数です。
資料1 秦野市(1987)秦野の記念碑,193p
資料2 平野富雄(1990)地震の石碑(21) 秦野市内の地震の石碑 (その 1)関東大震災における殃死者の供養塔,神奈川県温泉地学研究所,観測便り第40巻
資料3 武村雅之(2011)[資料] 神奈川県秦野市での関東大震災の跡-さまざまな被害の記録,歴史地震,26号,p.1-13
資料4 諸井孝文・武村雅之(2004)関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定,日本地震工学論文集,第4巻,第4号,p.21-45
資料5 秦野市(1985)秦野 ふるさと探訪,122p
秦野市ホームページ 「時代別詳しい歴史」、地域区分図など
秦野市役所(1977)秦野 郷土のあゆみ,215p