作成:2016/5
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 秦野市 HN-02
写真1 玉伝寺入口
供養塔は玉伝寺の入り口を左にして、道路をそのまま進んだ墓地にある
写真2 玉伝寺の墓地と供養塔
供養塔は道路に面し、台座の上に建てられている
写真3 関東大震災殃死者供養塔
供養塔は平成18年に改修工事が行われている
写真4
供養塔周辺の広場などの状況(供養塔の背後から望む)
いとこ地蔵は広場の建物の背後のさらに一段高い広場にある
撮影:2016/4
1889年(明治22年)の町村制の施行に際し、蓑毛村、小蓑毛村、西田原村、東田原村、名古木村、寺山村、落合村が合併して東秦野村となりました。震災当時は名古木は東秦野村の1つの字名でした。
背面には関東地震の発生した時刻および震災の犠牲者の氏名と年齢が刻まれています。2つの地区に分けられており、名古木で13人、落合で5名です。
その内、落合の2名の犠牲者は斜面の崩壊によるもの(いとこ地蔵尊 次ページ参照)ですが、その他は家屋の倒壊によるものと思われます。
犠牲者の氏名に年令が併記されると、それだけでインパクトが大きくなり、小さい子供が犠牲者になっているのには心が痛みます。
供養塔の表面にはカビかコケなのか薄茶色のマダラ模様が生じており、背面に刻まれている年齢などの文字が見にくくなっています。活字化されている資料1の助けを借りて何とか読める文字もあります。
供養塔は2段の台座の他に花筒や香炉が新しくなっており、新しい台座の正面には「総檀中」、背後には「寄贈 平成十八年六月改修 (有)遠藤石材店」と記されています。
一方、資料2の1990年ごろ撮影された供養塔の写真にも「総檀中」と刻まれた台座が写っていますが、現在のものと文字の形が少し違うようであり、平成18年の改修工事ではこの台座が新しく取り替えられたようです。「寄贈 平成十八年六月改修 (有)遠藤石材店」の文字通り、遠藤石材店による寄進的な工事であったものと思われます。
秦野市河原町にある命徳寺の震災殃死者供養塔には、1町5ヶ村の殃死者224名の氏名が刻まれており、当時の秦野盆地を中心にその周辺に存在する中郡の町村を総括するような立場で建立されていますが、この中に玉伝寺の供養塔に刻まれている18名の内、1名の名が見当たりません。理由はもとより不明です。
<資料3>によると、
同署部内(秦野警察分署管内)では秦野町の東南部地方に被害最も甚だしく、東秦野村名古木及大根村眞田、北矢名の民家は悉く倒壊し、
と記されており、ほとんどの家屋は倒壊あるいは大きな被害を受けたようです。なお、現在は大根村の真田は平塚市で、真田以外の大根村は秦野市になっています。
( )内追加
資料1 秦野市(1987)秦野の記念碑,193p
資料2 平野富雄(1990)地震の石碑(21) 秦野市内の地震の石碑 (その 1)関東大震災における殃死者の供養塔,神奈川県温泉地学研究所,観測便り第40巻
資料3 西坂勝人(1926)神奈川県下の大震火災と警察,496p
秦野市役所(1977)秦野 郷土のあゆみ,215p
武村雅之(2011)[資料] 神奈川県秦野市での関東大震災の跡-さまざまな被害の記録,歴史地震,26号,p.1-13