作成:2016/5
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 秦野市 HN-03
写真1 全景 いとこ地蔵尊は石段を上った正面にある
右側にはクスノキの大木があるが、当時から大木であったと思われる
写真2 いとこ地蔵尊
右の石碑はいとこ地蔵尊の由来碑
写真3 いとこ地蔵尊
写真4
崩壊斜面を望む
「いとこ地蔵尊」はプレハブの倉庫の左角後方の一段高い広場にある(モコモコとした新緑のクスノキの大木が目印となる) 崩壊した斜面は「いとこ地蔵尊」に対面する斜面で、写真の背景となる山地斜面
撮影:2016/4
いとこ地蔵尊の手前右側には「従兄弟地蔵尊の由来」と題する石碑(写真2参照)があり、次のように記されています。
従兄弟地蔵尊の由来
大正12年9月1日、とうじ東秦野村にあった三小学校を東小学校に統合するため、玉伝寺が地元、開進小学校の代替施設として利用の際、関東大震災による大規模な山の崩壊により落合出身の、真月恵光童女(俗名横溝イシ 10才)と農事作業中の従兄弟、大岳悟了信士(俗名小泉栄三 18才)が犠牲となった
碑はその後、地元篤志家が中心となり2人の冥福を祈り建設、平成13年の防災の日を前に、株式会社コイズミ(小泉乙吉社長)により整備されたものである
そのころ、東雲・田原・開進の三校があったが、学校統一のため各校解体が始まっていたので、寺や公会堂で授業がなされていた。名古木地区の玉伝寺では、児童が休み時間で外にいた時に関東大震災が起きた。寺の東側の山が高さ50メートル、幅70メートルにわたって地滑りし、児童二名が生き埋めとなる惨事があった。この二人はいとこ同士であったので、後にいとこ地蔵を建て供養したという話が残っている。
いとこ地蔵尊の浮彫の左右にはそれぞれ、「眞月惠光童女」、「大岳悟了信士」とする戒名が刻まれています。また、いとこ地蔵尊の側面には次のように刻まれています。
左側面 右側面
資料1~資料3では土砂崩壊による犠牲者は学童2名とありますが、「従兄弟地蔵尊の由来碑」によると10歳の小学生と18歳の農事作業者(小学校または玉伝寺の関係者?)になっています。年齢が正しいとすれば、いとこ同士とは10歳の小学生と18歳の青年であろうと思われます。この2人の氏名年齢は玉伝寺の供養塔にも刻まれており、また、氏名は命徳寺の供養塔にも刻まれています。
資料1 秦野市(1992)秦野市史 通史3 近代,806p
資料2 秦野市役所(1977)秦野 郷土の歩み,215p
資料3 秦野市市民部防災交通課(1982)関東大震災体験記,93p
武村雅之(2011)[資料] 神奈川県秦野市での関東大震災の跡-さまざまな被害の記録,歴史地震,26号,p.1-13
井上公夫(2013)関東大震災と土砂災害,古今書院,225p