作成:2016/5

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 秦野市 HN-04

秦野市南矢名 --- 龍法寺の震災殃死者供養塔 ---

  • 所在地:神奈川県秦野市南矢名1533 龍法寺(りゅうほうじ)境内
  • 震災当時は中郡大根村で、昭和30年より秦野市
  • 碑銘:震災殃死者供養塔
  • 形態:石碑
  • 建立年月日:昭和10年9月
  • 交通:小田急小田原線「東海大学前」よりバス「町内会館前」下車徒歩200m(全行程約2.4km)
写真1 龍法寺の門前から本堂方向を望む

写真1

龍法寺の門前から本堂方向を望む

本堂までに2カ所の短い石段がある 供養塔は手前の石段の最上段付近右側にある


写真2 供養塔は石段の右脇にある

写真2 供養塔は石段の右脇にある



写真3 震災殃死者供養塔

写真3 震災殃死者供養塔


写真3 震災殃死者供養塔

写真4

龍法寺背後の弘法山中腹から山裾の瓜生野方向を望む

遠景は秦野市大根地区~平塚市 中央の搭状の建物は東海大学湘南校舎

撮影:2016/4

龍法寺

< 案内板より > 案内板は縦書き

龍法寺(りゅうほうじ)

山号を亀谷山(きこくざん)と号す。古くは真言宗であったが、大永・享禄のころに陽始誾甫(ぎんぽ)大和尚によって現在の曹洞宗(そうとうしゅう)に改められたという。周辺には境外仏堂の釈迦堂のある弘法山を始め真言沢など真言宗時代の面影を残す。境内にある数基の五輪塔の他、本堂裏の道路沿いから出土した多量の瓦片は共に鎌倉時代のものであり、弘法山山頂の鎌倉期の経塚と共に歴史の古さを物語っている。

当寺には平安末期の薬師如来立像・十一面観音菩薩立像の他天文三年鎌倉の仏師永盛が造立したことを記す不動明王立像と毘沙門天立像などを安置する。

昭和60年2月

秦野市観光協会


龍法寺の震災殃死者供養塔

石碑は紡錘形の安山岩で、男性が2名、女性が4名、子供が2名計8名の戒名とだれだれの父のように本人ではなく家長との続柄が記されています。その内の1名は続柄がなく家長と思われ、命徳寺の震災殃死者供養塔にもその名を見出すことができます。

背面には「瓜生野一同」とあり、当時の大根村南矢名の瓜生野(うりゅうの)の人々によって建立されたことが分かります。

瓜生野(うりゅうの)

大根村は明治22年の町村制の施行により、南矢名村・落幡村・下大槻村・北矢名村・真田村が合併して生まれた村であり、合併前の村名は大字名となりました。瓜生野は南矢名の小字に相当し、資料2によると風土記にもある古くからの地名です。

市指定の無形の民俗文化財に、穀豊穣・悪疫退散を祈願する「瓜生野百八松明(うりゅうのひゃくはったい)」という火祭りがあります。長さ2メートル~3メートルの松明が権現山山頂から龍法寺門前まで地元の人々によって担いで運ばれ、門前で松明を振り回すとのことです。




資料1 秦野市(1987)秦野の記念碑,193p

資料2 石塚利雄(1980)秦野地方の地名探訪,173p

秦野市ホームページ 秦野市域の指定・登録文化財

秦野市役所(1977)秦野 郷土のあゆみ,215p